なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

生きづらさ その2

また2週間以上ブログに手をつけないでしまいました。これからボチボチ続けていきますので、よろしく。

さて9月14日に書いた「生きづらさ」をその1としてその続きを書きます。

「生きづらさ」その1で、私は、戦後しばらくの貧しかったけれども、何でもありだった時期の日本社会が、日本近代史の中で一番生き易かったのではなかったか、と書きました。

その頃はまだ私も幼かったので、よく分からない点もありますが、少なくとも戦災を受けて何もなくなってしまった人々が、何とか生きなければならないと、悩んでいる暇もなく体を動かして働いたのではないでしょうか。

私の家族も横浜の戦災で家が焼けてしまいましたので、戦後はバラックの家に住んで、私は自分の部屋もなく、机もなく、部屋の片隅でリンゴの箱に和紙を張って作った机で勉強していたのを思い出します。

みんなが貧しく、同じような生活でしたので、他の人のことをうらやましがることもなく、自分も優越感を持つこともなく、それが当たり前のように思っていましたので、気持ちが楽でした。

明日のことなど考えられない、その日暮らしの気楽さというものがあるのでしょう。イエスの「空の鳥、野の花を見よ」という山上の説教の一節を想い起こします。マタイによる福音書6章25節以下ですが、その最後にこういう言葉があります。

「・・・・・だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」。何ともおおらかではありませんか。ああだ、こうだと思い悩むことなく、今日一日に集中して生きれば、それで結構ではないか。

もし私たちがそういう生活に集中できれば、生きづらさは相当解消されるでしょう。ほとんど感じないですむかも知れません。

では、そういういわば「その日暮らし」に徹する生き方ができるようになるには、どうしたらいいのでしょうか。私はキリスト教や聖書にこだわって生きてきた人間です。ですから、聖書からこの問いに対する示唆を与えれてきました。

聖書では祈りは神との対話です。ですから、祈りによって直接神との対話というチャンネルが持てると、「無限遠点」としての「天国(神の国)」からこの世界を見られるようになります。そうすると、学校や会社やこの日本の社会の縛りがあっても、それとは別のチャンネルからこの世界と自分を観ることができますから、それらの縛りが気にはなりますが、どうということはないのでは? と思えてきます。

そうなれば、生きづらさを抱えながらも、生きづらさの縛りにがんじがらめにならずに、あなたはあなたらしく生きていっていいんだよ、という神さまからの風(霊)を受けて、少しは明るく、解放的に生きていかれるのではないでしょうか。

「お祈りができるようになると、この世界を天国から見られるようになります。お祈りは信仰の力、希望の力、愛・・・・・神さまの変わらない愛・・・・・の力を信じることです」(ロイス・ロック)。