なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

生きづらさ

「生きづらさ」はいつの時代や社会でもあるでしょう。

でも、ある人の生きづらさが周りから支えられて、その人が生きづらさを抱えながらも、毎日生き抜くことができれば、社会としてはセフティーネットが一応あると言えるでしょう。まずはそのことが私たちの中に実現するようにしなければなりません。
一昔前であれば、家族や親族や地域社会がその役割を担っていたと思われます。よかれ悪しかれ、家族親族・地域社会には人と人との絆があり、その絆には、生きづらさを抱えながら生きている人を見守る力があったからでしょう。人間を温かく包み込むある種の包容力のようなものです。

歯車が長持ちするには、時々潤滑油が必要です。油を切らした歯車は抵抗が大きく、すぐに磨耗してしまいます。人間も同じでしょう。潤滑油としての家族親族、地域社会は、現在ではその機能を果たせなくなっています。そこに現在の危機のひとつがあります。でも、昔に戻ろうとしても、それは無理というものです。
では、どうしたらいいのでしょうか。私なりに考えていることを書いてみたいと思います。少し長くなりますので、何回かに分けて書きますので、よろしく。

さて、単独者としての個が生きていくには自分以外の複数の同じ単独者としての個と関わらざるを得ません。つまり人間は社会的な存在ですから、社会と無縁に生きることが出来ないのです。
社会からは単独者としての個に「お前はこうでなければならない」と圧力がかかります。
最近義務教育では「心のノート」というのがあって、子どもたちに「愛国心」を醸成しようとしているようです。愛国心をもつ人がいてもいいいですが、人間はみんな対等同等なのだから、国という枠組みなど越えて、地球人、宇宙人として生きていきたいという人があってもいいではありませんか。

「みんなちがって、みんないい」(金子みすず)のです。その方が自由で解放的です。そのような社会の方がどんな人でも息がし易いと思います。息がし易ければ、生きづらさがあっても、生きていけるのではないでしょうか。
みんなが息がし易い社会、外国人でも、在日の人でも、被差別部落出身の人でも、障がい者でも、子どもでもお年寄りでも、女性でも、セクシュアル・マイノリティーの人でも、誰一人息を詰まらせながら生きなければならない人がいない社会がいいですね。

日本ではアジア、太平洋戦争で敗戦して、しばらくの時期は貧しかったですけれども、何でのもありの社会でした。朝鮮戦争が始まるまでの数年が、もしかしたら、相対的には日本の近代史の中で一番みんなが息がし易かった社会ではなかったでしょうか(次回に続く)