船越通信癸械隠院。横娃隠掲4月30 北村慈郎
・23日(日)も礼拝後いつものようにお茶を飲みながら懇談して散会しました。この日船越教会からの
帰りがけに、16号線の交差点の少し前でHさんから教区に提出する2016年度の会計報告書をいただき、
京急田浦から電車に乗りました。その他の報告も記入して27日に教区主事宛てに投函しました。これで
年度報告は教区に提出できました。
・さて私は22日(土)の午後7時から横浜YWCAの3階ホールで行われた「堀江有里と連連影展」に土曜
日の夜でしたが行きました。この集会のチラシには、「それぞれの時代、場所での<生>の模索を映し
出す映像をみながら、<生>の模索についての考察を続ける堀江有里さんと 共に 語ろう。/多くの
人びとは、みずからの<生>が、“いまーここ”にあることを確かめようとして“自分が何者であるか
”を模索しようとする。人(他者)との関係という、ものさしを使いながら(『レズビアン・アイデ
ンティティーズ』より)」とありました。最初映画『レズビアナ: もうひとつの革命』(ミリアム
・フォジェール監督/カナダ/2012年)をDVDで鑑賞し、その後堀江有里さんのトークと質疑応答があり
ました。私は質疑応答の中で、(異性愛夫婦の形態ですが、)自分の中の男としての暴力性の気づき
は女である妻との関係性の中で与えられることが多いという主旨の発言をしました。するとフロアーの何
方かから「男の気づきの為に女がいるわけではない」という主旨の声がありました。それはその通りで
す。異性愛者が圧倒的に多い社会の中で同性愛者の方が生きていくことが、どんなに困難なことなのか、
私も少しは理解しているつもりでいますが、それも私の思い上がりなのかも知れません。私は生きづらさ
をいろいろな局面で感じますが、自分が男という性をもって生きていることに生きづらさを感じたことは
ほとんどありません。それはこの日本の社会がまだまだ男にとって都合の良い父権制社会を濃厚に残存し
ているからなのでしょう。その人の出自(生まれや性差など)や社会的立場の違いによる差別がなくな
り、すべての人の差異を前提にして、その人がその人らしく生きられて、しかも上下関係もなくだれ一人
排除されない共同性がどのように築き得るのか、それこそが私たちの課題なのかも知れません。既存社会
の中のある役割に自分の身を置いて安定した生活を求めるのではなく、それぞれが創造的に「みんなち
がって、みんないい」という社会を造り出すことでしょうか。ただいつの時代でも社会の中でその声を最
初に発するのは、その社会の中で苦しんでいる人、生きづらさを抱えている人、その人たちの叫びを聞き
取れた人ではないでしょうか。少なくとも私はその発した声を無視せずに、耳を傾けたいと思っていま
す。堀江有里さんのレジュメには、レズビアンの定義として、ラディカルレズビアンズ『女と一体化した
女(The Woman –Identified-Woman)』からの引用として以下のように記されていました。《レズビアン
とは爆発点まで達したすべての女たちの怒りである。レズビアンとは、社会が〔…〕女に認める以上に、
もっと完全で自由な人間でありたいと願う、内なる衝撃のままに行動する女である。〔…〕レズビアンと
は、社会のもっとも基本的な役割―すなわち女の役割―に課せられた制限や抑圧を、断固拒絶した女であ
る》と。また、同じく引用されていました《異性愛の関係は、あの嘘の放つ不快なストロボのなかで生き
られている〔…〕。私たちがどんな自己同定を選ぼうと、どんなラベルで分類されようと、その光は私た
ちの人生をチカチカと横切って、歪めてしまうのである。〔…〕「密室」のわなにはまっているレズビア
ンと、「正常」なるものについてあてがいぶちの観念にとらわれている女性はともに、選択の道をふさが
れ、つながりを断たれ、自由に力づよくわがものとできるはずの自己定義への接近権を失うという苦しみ
を、共有しているのである》というアドリエンヌ・リッチの言葉が響きました。
・25日(火)-26日(水)は名古屋に連れ合いと一緒に行ってきました。名古屋時代の教会の方が自
分としては最後になると思うが、ご両親の追悼記念会をしたいので、私に記念式をしてもらえないかと大
分前に依頼されていたのです。それが25日(火)ということで、農伝の説教演習は休講にしてもらい、
朝早く鶴巻を出て、名古屋に行きました。名古屋と言ってもその方の自宅は尾張旭市です。その家の前に
は用水用の大きな池があり、故人はその池をレマン湖と呼んでいました。その家の2階から池を眺めます
と、今は若葉の時期ですので、確かに素晴らしい風景です。私たちは11時30分ごろその家に着きました。
記念式は教会関係者3名、親戚の方4名、私たちとご本人とでちょうど10名でした。12時から記念式をし、
その後会食をして、途中帰られた方もいましたが、親戚の方4名と私たちは最後まで残って、暗くなって
から用意してくれていた名古屋の栄のホテルに向かいました。この親戚の甥兄弟夫妻4人の方は田浦教会
のメンバーで、船越のこともよくご存知でした。特に棚山六三郎牧師や赤城昭二郎牧師のことをです。ま
た、弟ご夫妻はアメリカ生活の経験もあり、アメリカでは赤城先生の息子さんを一時自分たちの家で生活
してもらったこともあるとおっしゃっていました。もちろん赤城牧師のお連れ合いのこともよくご存知で
した。Iさんによろしくとおっしゃっていました。日本のキリスト教界は狭いというか、直接お会いした
ことのない方でも、どこかで繋がっている場合が多いのです。今回もびっくりしました。
・翌日26日(水)は、船越教会の礼拝にも何度がいらしたH・Sさんを、前日の記念会にもいらしていた
のですが、ゆっくり話をするために現在H・Sさんと妹のH・Hさん(この方も船越教会には夏のフェミニス
ト神学の会で何回か来ています)が入っているホームに訪ねました。妹のHさんは自由に歩けますが、H・
Sさんは昨年初春の頃脳梗塞で入院し、その後いろいろあって、今はこのホームで車椅子生活をしていま
す。しかし、知識欲は旺盛で、私が伺ったのもH・Sさんが書いた聖書解釈に関する文書に私がコメントす
るためでした。2時間強話して、名古屋時代の教会の別の人を訪ねていた連れ合いと名古屋駅で落ち合
い、帰途に着きました。
・28日(金)は寿の炊き出しの配食のボランティアをしてから、夜の支援会の世話人会・事務局会にで
ました。