なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

自立ということ

私は教会で「自立と共生」ということを常々語っている。約12年前に今の横浜の教会に牧師として働く前には、名古屋の教会で18年間牧師として働いた。「自立と共生」ということを意識的に教会の中で言い始めたのは、確か1983年頃からではなかったかと思う。その当時の教会の仲間と相当時間をかけて話し合った末に、教会で我々がめざすべきは「自立と共生」ではないかと思ったからである。今でこそ「共生」は当たり前のように言われているが、その頃教会の世界ではそれ程言われてはいなかった。

この「自立と共生」を教会で言うようになった背景には、聖書のイエスの出来事を福音(よきおとずれ)と呼ぶとすれば、イエスの福音は、神と人、人と人との平和・和解の樹立、すなわち交わりの回復ではないかと考えたからである。

現実の人間の問題は、神と人、人と人との間に障壁のようなものがあって、そのあるべき関係が壊れているところにあると思われる。聖書ではそれを罪と言っているし、一般に教会でもそう言っている。しかし、その一般的な罪理解には個人の心情的な捉え方が強く、神と人、人と人との関係の歪みを実存的にも社会的にも深く広く捉えられてはいないよううに思われた。そこで罪という言葉を避けて、交わりの破れとか関係の破れとか言って来たように思う。

さて私が「自立」と言う場合、どんなことが考えているかというと、以下のようなことである(以下教会の機関紙に書いたものを一部再録する)。

《確か羽仁もと子さんの全国友の会のモットーは、「思想しつつ、生活しつつ、祈りつつ」ではなかったかと思います。友の会では、多分家庭という場での女性の自立ということで、因習にとらわれない合理的な家庭の設計ということがめざされているのだろうと思います。時々これで挫折したという方がいらっしゃいますが、「家計簿講習」などもその一環ではないかと思います。中には生活の合理性だけがきわだって、思想しつつ、祈りつつが欠けているのではないかと自省される友の会の会員もいらっしゃいます。私の自立のイメージは、この友の会のモットーに近いのですが、それぞれの私という個が自分の置かれた場で「思想しつつ、祈りつつ、生きる」というほどのものです。思想しつつということの中には、自分で聖書と格闘するというキリスト者としての基本的な課題があるでしょう。祈りつつということの中には、主の祈りを日々祈っている者として主の祈りを生きるという課題があるでしょう。聖書と他者の言葉に耳を傾けつつ、自分で考え、祈り、神のみ心がなるようにと、その人に与えられた場で他者との関わりを大切にして生きることが、私の「自立」という言葉に込められた思いです》。

「共生」については別の機会に書いてみたい。