なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

日常の中の非日常

まだ長袖シャツで腕まくりしないと、暑いくらいの陽気だが、昨晩9時ごろ外で委員会があって帰ってきたところ、教会の斜向いの家の庭からコオロギの鳴き声が聞こえてきた。立ち止まってその泣き声に耳を傾けた。

すると、自分がいたところは、アスファルトの道路とコンクリートの建物が林立しているところだが、そんなところにいる自分ではなく、野原でコオロギの鳴き声を楽しんでいるかのような錯覚にとらわれた。まだ少し蒸し暑くあるが、涼しい風が吹いてくるようだった。秋の夜、自然のいっぱいあるところにいる自分を感じた。

人は何かに引き付けられることによって、日常を超えて非日常の世界に戯れることができるものなのだろう。普段生活にとらわれている自己から浮遊し、夢の世界に自分が遊んでいるような感じだ。精神医学の世界では離人症と言われる状態が人間には起こり得るようだが、日常の自己から遊離して、コオロギの鳴き声に魅了されている私は、普段の自分とは別人のように思われる。

このことは、この世俗の社会に生きている者の息苦しさを抱えている私たちではあるが、必ずしもこの世俗の社会に100パーセント呪縛されているわけではないことを示しているように思われる。

病や死に限界づけられている身体を抱え、かつ世俗の社会の縛りの中で、人が自由に生きる道は、いずれにしろ「狭き道」なのかも知れない。

聖書はその「狭き道」を私たちに示してくれるように思う。しかし、キリスト教や教会やわれわれキリスト者が、聖書の「狭き道」を勝手に「広き道」に変えて、世俗の社会の縛りに協力して、人の夢を奪っているようにも思えて不安である。