なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

体制を超えるもの

旧約聖書サムエル記上22章を聖書研究会で扱った。旧約は面白い。実に人間の姿を良かれ悪しかれリアルに描いている。
この箇所にはサウル王から追われて隠れていたダビデのもとに、当時の社会から様々な事情で脱落した反体制的な不満分子が集まって、ダビデを頭領としてダビデの私兵軍団ができたことが記されていた。

話が飛躍するが、私は常々キリスト者も社会の中では脱落者に近いのではないかと思っている。福音書に描かれているイエスのもとに集まった群れは、当時のユダヤ社会では正統派から排除された人たちが中心だったと思われる。彼ら・彼女らも当時のユダヤ社会ではドロップ・アウトしていた(させられていた)人々ではなかったか。
そういう意味では、ダビデのもとに集まった人たちと、イエスのもとに集まった人たちは社会的にはどこか似ているところがあるのかもしれない。ただイエスのもとにあつまった人々はダビデのもとに集まったいわば傭兵となる人々とは根本的に違う。様々な差別を受けていた人たちで、自分ではなかなか立ち上がれなかったのではないか。

エスの運動と後の教会には、どこか乖離するところがあるように思われる。それがはっきりとしたのは、4世紀前半にローマ帝国キリスト教が帝国の公認宗教となり、国教化した時からであろう。既に2世紀半ば頃からそのような傾向が教会の中に生まれていたのだろうと思うが。
教会の護教論者は、福音書に描かれているイエスの物語やローマに統合されるまでの多様な原始キリスト教やその後の教会の歴史には、余り関心を示さない。ローマに統合されたキリスト教(教会)は、どうしても権力者の側に立ち、その時代の社会の統合を補完してきた。

エスのもとに集まった人々は、いつの間にか教会の構成員から、教会から慈善を受ける対象になっていった。その構造は現代の日本のプロテスタント教会である日本キリスト教団の諸教会においても引き継がれてきているのではないかと思われる。
体制補完的な教会から、体制変革的なイエスの運動の継承が現代のわれわれの教会に問われている課題ではないかと、私は密かに考えているのだが?