なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

クリスマスの日に

また大分間が開いてしまいましたが、またぼちぼちやろうかと思います。

一昨日教会では12月24日日曜日ということで、朝にはクリスマス礼拝があり、その後クリスマス祝会があり、そして夜には音楽の捧げもの(コンサート)に続いて燭火讃美礼拝(キャンドルサーヴィス)がありました。燭火讃美礼拝が終わって、有志でキャロリングにでかけました。教会の前とみなとみらいの日本丸の所と桜木町駅の三箇所でクリスマスの讃美歌を数曲歌い、最後にメリークリスマスと言って終わります。

1日の内にこれだけ盛沢山の行事をこなしましたので、昨日は午前中ボーとして過ごしました。この頃私の脳裏をいつもかすめているのは、イエスの十字架です。なぜイエスは十字架というローマ帝国の反逆罪に当たる残酷な処刑を受けねばならなかったのでしょうか。

私は昨夜の燭火讃美礼拝の説教で、大方このようなことを話しました。

「彼こそ、まさしく平和である」という旧約聖書ミカ書5章4節は、イエスに当てはめられるのだが、イエスの平和っていったい何でしょうか?

私の連れ合いが知的障がい者の作業所の昼食作りに週一回いっている(昨夜私は「知恵遅れ」と言ったが、後で最近は「知的障がい者」と言うのだという指摘受けました)。自分の作った昼食を知的障がい者の方々が喜んで食べてくれる。その喜んでいる姿を見て自分もうれしいと、彼女は時々言う。人が喜ぶことをして、自分も喜ぶ。このような私たちの日常の中にある小さな喜びがイエスの平和に繋がっていくのではないだろうか。

エスは病気や様々な苦しみで打ちひしがれている人々に生きる喜びを回復させた。彼ら・彼女らはイエスによって喜びをもって自分の足で立ち、歩み始めた。そのことは権力者からすると、好ましくないことではないか。権力者は自分の言いなりになる人間を求めるし、自分の足で立ち歩み始める自立した人間を警戒するだろう。

命と生活を喜こんで生きる一人一人が平和を造り出す人ではないだろうか。イエスと出会った人々はそのような一人一人になっていったのではないか。イエスが十字架に架けられたのも、このことの結果ではないかと、私は思っている。