なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

錯誤

 この一ヶ月近く、更新できずに過ごしてしまいました。
 
この病んでいる日本の現代社会に翻弄されながら、なかなか言葉が見い出せません。でも、ぼくは牧師を今もしているし、教会では説教もしています(自己矛盾?)。
昨年10月頃に、ぼくが所属する教団の神奈川の女性たちによって開かれた集会でしたぼくの開会説教が、最近女性たちの会報に載りました。その説教をこのブログに再録させてもらい、また初心に返って、「なんちゃって牧師の日記」を再開したいと思います。

ちょうど教会の暦では受難節(レント)になりますので・・・。

「ペテロの錯誤」 
マルコによる福音書8章31-35節:
「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話になった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。』それから、群集を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それをすくうのである・・・』」

マルコによる福音書には8章、9章、10章とイエスの受難予告が三度記されています。
今日のテキストはその最初のものです。この予告の通り、イエスは十字架に架けられて殺されました。
通常教会では、イエスの十字架を歴史的な事件として受け止めるのではなく、イエスの十字架によって神は私たち人間の罪を贖ってくださったという贖罪論として受け取られることが多いように思います。

けれども、このマルコによる福音書のイエスとペトロとのやりとりの記事からしますと、ここで語られていますイエスの受難と死、すなわち十字架は、明らかに無理やりに当時の権力者による強制された死であり、処刑という形の殺害であります。
ペトロもその事実を知らされて驚き慌てて、イエスをいさめ、逆にイエスによって「サタンよ、引き下がれ」と大変厳しい叱責を受けたのでしょう。ある人はイエスの十字架において重要なのは、その死の意味を問題にする以上に、「そこでイエスがめざし、死を賭して立ち続けたものは何かを問うことであろう」と言っています。

さて、9・11から五年が過ぎました。
この間ブッシュ大統領の吹聴するキリスト教信仰に疑問を感じてきた方も多いと思います。

哲学者の木田元さんと演出家の竹内敏晴さんの対談がまとめられている『待つしかない~21世紀身体と哲学~』という本の中で、竹内敏晴さんが、近頃のアメリカのキリスト教は「十字架以前だ」と言っているところがあります。「ブッシュ大統領は神のことはしきりに口にするが、キリストのことはひとことも出てこない。キリストのことを思えば、愛の問題が出てくるはずだと思うのに、その影すらない。

そういうキリスト教は十字架以前ではないか」と。そして私たち日本のキリスト者に対して、「私はキリスト者に対していささかガッカリしているんです。天皇制の問題を考えるときに、天皇制に対して一番抵抗力を持ちうるのはキリスト者だろうと思ったから、私は何遍かキリスト者に対する期待を書いたことがあるんです。・・・キリスト者ががんばってくれなきゃ困ると言ったことがあるんだけれども、いまの状況を見ていると、もう全然あかん」。それに対して木田元さんも、「本当にキリスト教を旗印に掲げるんだったら、十字架に架けられたキリストをもっと問題にしていいはずですがね」と言っています。

この問いかけに、私たちキリスト教を旗印にかかげている者は、真摯に答えなければならないと思います。そのためには、「イエスがめざし、死を賭して立ち続けたものは何か」を問うていかなければならないでしょう。

 これが、ぼくの近況報告の一端でもあります。ではまた・・・