なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

受苦日の再出発

昨年度一年間引きずっていた自分の中のこだわりも、やっとそのこだわりよりも大きなものが自分の中に生まれてきて、そのこだわりから自分の心が解放されてきているのを実感している。
そこで、また初心に返って、ブログ・なんちゃって牧師を再開したい。

昨日、現在の格差社会で何とか生きている、そろそろ40歳になろうとする人と話した。実は彼は、私が牧師として最初に働いた教会のメンバーだったが、今年のイースターに今私が牧師をしている教会のメンバーに移行しようとしているのである。彼に洗礼を授けたのは私である。

彼は以前キリスト教主義の中学の英語の教師をしていたことがある。1年か2年でその教師をやめた。彼の言い分は、自分はキリスト教主義の学校だから、聖書の教えに基づいて、子供のことを考えて楽しく教師ができると思ったが、実際は管理、管理でいやになってやめたという。彼は今考えても、やめたことは正解だったと思うと言っている。
実はそのキリスト教主義の中学校・高等学校はわが母校なのである。
彼は、その学校が掲げているキリスト教と実際の学校運営のギャップに躓いて、一度はキリスト教をやめようかと思ったという。キリスト教をやめようと思った理由はそれだけではなく、長年教会の礼拝にいかなかった自分が、教会から除籍されているということを噂で聞いたこともあったようである。そんな教会クソ食らえと思ったのだろう。気持ちは分かる。

でも、彼はキリスト教をやめられなかったという。何故か? 教師を辞めてから、それこそフリーターとしていろいろな仕事をしていく中で、ドンドン自分が落ちていくのではないかという不安を感じたという。その時自分が落ちていくのを支えてくれて、人間として道を踏み外さないで今あることができたのは、実は自分の中にあったキリスト教信仰だったように思う。だから、また礼拝に出るようになったと。

彼の正直な話を聞いて、この頃以前にも増して涙もろくなっている私は、彼の手前実際の涙は出なかったが、心は涙で一杯だった。その涙はもちろんうれし涙だ。
こんなとき、神さまっているんだなー といいたいところだが、何でも神さまにもっていくのはどうかと、普段から考えている私としては、ただだまって彼の話を聞いていた。