なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

人生の難問

自分一人で生きているのではなく、人との関わりの中で生きている私たちには、自分も大切だが、他者も大切である。自分さえ良ければ、他の人はどうなっても関係ないというわけにはいかない。

古代ギリシャの哲学者であるカルネアデスという人が、人生の難問を面白い譬えで提示している。「難破船の一枚の舟板をめぐって、漂流する二人がそれにとりすがろうとするとき、そしてその板の浮力が二人を救うには足りない時、人はいかなる態度を取るべきか。あるいは自分がその板を独占しようとして争って勝って生き、相手を死に至らしめたとしたら、その行為は不当であるか、また罰せられるべきか」という問題である。

ある人はこんな風にも言っている。「世にあって生きる人間の現実は、自己保存本能と、良心、愛、正義との対立のどちらか一方によって成り立つほど単純ではない」と。

エスは、「『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイによる福音書5:43-44)と言われた。
「隣人を愛し、敵を憎め」というあり方は、比較的一般的にすべての人に共通したあり方であろう。隣人に当たる人を限った上で、それ以外の人を敵と考え、隣人は愛し、敵は憎むというのである。イエスの時代のユダヤ人の多くは、この考え方で生きていた。
しかし、イエスは「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と言われる。「父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(同5:45)と。

自然の恵みはすべての者に平等に注がれる。このすべての人に注がれる平等な神の愛にすべての人が生かされているということを知った者は、すべての人の人権を認め、その人権の充実を求めて共に生きる人となっていくに違いない。福音書のイエスの道行きもここにあったのではないかと思われる。