なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

類としての病者

私たちの中には聖書の時代の人々と同様に、いろいろな苦しみを背負って生きている人々がいる。その中でも病気は私たちが経験する苦しみの一つである。その病気が重ければ重いほど、病者本人だけでなく家族全体に重圧がのしかかり、本人はもちろん家族の方々からも希望を奪い、暗い気持ちにさせもする。
エスは病気を説明するのではなく、病気を癒された。イエスにおいては、病気は単なる身体の一部の問題ではなく、人間存在全体に関わる問題であった。イエスにとって、病気は人間を苦しめる悪であり、罪の結果であり、人間に対するサタンの力の現われであると考えられた(ルカ13:16)。

病気の治癒、つまり人間が健康体になることは、イエスにとっては死の支配からの救済である。身体的にどんなに健康体であっても、その人間が健康であるとは直ちには言えない。もしかしたら、強健な身体ゆえに、多くの人を苦しめている人もいないとは言えないからである。
エスにあって、悪霊追放と病気の治癒が並行して行われているのは、人間が悪霊の支配下から神の支配下に、つまり神の下にある交わりに回復されてはじめて、真の健康を取り戻すことが出来るからなのである。

マルコによる福音書1章29-39節の多くの病人を癒す記事には、「われわれがイエスに達しようとするときの必死の思いと希望、そして、イエスがわれわれに達しようとするときの力とあわれみの混じり合ったものを描くマルコの描写」が際立っている。

私たちは類としての人間として、例え他者であっても、一人の病者は私たちの一部であり、私たち自身の類的な身体の痛み・苦しみであるということを見失ってはならない。私たちの感性は個人主義的に歪曲されているために、他者の病や痛みを自分自身のものとして感じられなくなっているかも知れない。しかし、類的な人間においては、他者と自分は一つの身体の異なる肢体に過ぎない。とすれば、病者の存在は私たち自身の痛みである。
私たちは必死の思いと希望をもってイエスと向かい合う。その時、イエスは病める者を癒し、悪霊を追放し、神の国を宣べ伝える者として、私たちに向かい合い、迫ってくる。そのイエスとの激しい格闘の中に、様々な病を抱えて苦しみ痛む方々と共に、私たちは立つことが許されているところに、私たちの希望があるのではない