なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(40)

       「弱さを負い、病を担う方」マタイ8:14-17 2019年6月23日


・イエスの苦難と死の出来事であります、十字架を担われたイエスは、旧約聖書イザヤ書53章に描かれ

ています苦難の僕の預言を成就した者として、初代教会では信じられていました。


・このイザヤ書53章の苦難の僕の預言の一節が、先ほど司会者に読んでいただきました今日私たちに与え

られています聖書の箇所であります、マタイによる福音書の8章17節に出てくるのであります。


・このマタイによる福音書の8章14節から17節のところは、マタイによる福音書では、8章1節から4節に記

されていましたハンセン病の人の癒しと、5節から13節に記されていました百人隊長の僕の癒しに続く、

三つ目のイエスによるペトロのしゅとめの癒しが14節、15節に記されています。そして16節、17節には、

エスの癒しに関する一つの総括的な記事が記されています。その中にイザヤ書53章4節の自由な引用が

出てくるのであります。


・このマタイによる福音書の箇所は、マルコの資料に従っていますが、イザヤ書53書からの引用だけは、

マタイにしかありません。それはマタイの特殊資料からのものです。ルカによる福音書の並行記事にもあ

りません。ですから、病者の癒しと悪霊追放というイエスの業を、マタイによる福音書の著者は、イザヤ

書53章の苦難の僕の預言の成就として理解していることを示しています。


・このことが何を物語っているのかについては、最後にお話ししたいと思いますが、その前にペトロの

しゅうとめの癒しのマタイによる描き方に注目したいと思います。このところは、マルコとルカの並行記

事と比べてみますと、マタイの描き方の特徴がはっきりします。


・マルコもルカも、イエスがペトロのしゅうとめを癒すまえに、マルコでは、イエスが会堂を出て、弟子

たちをつれてシモンとアンデレの家に行かれたときに、「シモンの姑が熱を出して寝ていたので、彼らは

すぐに彼(イエス)にそれを告げた」とあります。ルカでも、「シモンの姑が熱で苦しんでいたので、人々

はそのことで彼(イエス)にお願いした」と記されています。


・マタイの記事は、イエスがペトロのしゅとめを癒したという事実のみを簡潔にしるしているだけであり

ます。もういちど14節、15節を読んでみます。


・「イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのをご覧になった。イエス

その手に触れられると、熱が去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした」。


・簡潔ではありますが、マタイがこの記事を通して語ろうとしている含蓄は深いのです。

➀ 当時のユダヤ社会の中では女性はひとり前には扱われませんでした。そのことはイエスの5千人や4

千人の供食の物語で、食事を共にした数が「男5千人」「女4千人」と記されていて、女の人と子どもは

数に入っていなかったことからも明らかです。その女性であるシモンのしゅうとめが、イエスの癒し(救

い)の対象になっていることです。

◆.ぅ┘垢録佑らの願いを待つまでもなく、ご自分から自発的に、ペトロのしゅうとめの熱病を癒され

たということです。

 またその手段として8章1-4節のハンセン病者のいやしの場合と同じように、手を伸ばして病人に触れ

られたということです。
                         (以上は高橋三郎による)


・ヘンリ・ナウエンの『今日のパン、明日の糧』の3月25日の文章は「癒しの触れ合い」という題のついた

ものです。短い文章ですので、読んで見たいと思います。

「癒しの触れ合い」      3月25日

≪触れること、そう、人に触れることは言葉にならない愛の言葉を語りかけます。赤ん坊の頃は沢山触れ

てもらいますが、大人になるとほとんど触れられることはありません。でも友だちとの関係においては、

触れることは、しばしば言葉よりも多くのいのちを与えてくれます。背中をさすってくれる友人の手、私

たちの肩にかかった友人の腕、涙をぬぐい去ってくれる友人の指先、額にそっと口づけしてくれる友人の

唇、これらのものが本当のなぐさめをもたらしてくれます。こうした触れ合う瞬間は本当に尊いもので

す。触れ合う瞬間は、回復をもたらし、人を和解させ、安心させます。触れ合う瞬間は人を許し、癒しま

す。

 イエスに触れた人はみな、そしてイエスに触れられた人はみな癒されました。神の愛と力とがイエス

ら出て行ったのです(ルカ6:19)。友人が、無償の何も拘束しようとしない愛をもって私たちに触れる

時、私たちに触れるのは、人となられた神の愛であり、私たちを癒すのは神の力です≫。


・マタイは、イエスがペトロのしゅうとめの手に触れて癒したと記していますが、16節の総括的な記事で

は、「イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた」とあり、言葉の強調が目立ちます。このと

ころはルカでは、「一人一人に両手を置いて」癒されたと記されています。病者の癒しは、病者からの悪

霊追放であるという点はマタイ、マルコ、ルカとも共通しています。


・さて、マタイによる福音書のみにある8章17節ですが、ここももう一度お読みします。「それは預言者

イザヤを通して言われたことが実現するためであった。『彼はわたしたちの患いを負い、私たちの病を

担った』」


・私は牧師として病者を見舞う時には、最後に祈りますが、その祈りの前にっこのマタイ8章17節の『彼

はわたしたちの患いを負い、私たちの病を担った』を読んでから祈ることにしています。


・ここの「患い」と訳された言葉は、弱さを意味する名詞であって、人間の根源的無力を語る言葉だとい

われます。この無力さが病と病による死として人間を苦しめ、脅かしているであります。


・高橋三郎さんは、「イエスはこれをわが身に引き受け、取り除くことによって、その救いを実現してく

ださる。つまりこれは、単なる疾病治癒の物語に終わるのではなく、人間存在全体が、救いの対象となっ

ているのである。そしてイザヤ書では、『苦難の僕』は世の罪を負って、贖いの死をとげたのだが、イエ

スによる癒しは、この預言の成就とマタイは解したのであった。しかも『悪霊との戦い』として、この癒

しが叙述されていることも、重大な眼目であったにちがいない」と語っています。


・私は若い時に、筋萎縮症で身動き一つ自分ではできない、寝たきりの状態になりました病んだ母との関

係におきまして、逃げまくっている自分を経験したことがあります。


・母が筋萎縮症を発症して、手足を初めとして、体の先端の筋肉から委縮しはめたのが、私が中学3年生

の時でした。まだその頃は父が薬の仕事をしていましたので、母の病気に効くと言われる薬を飲んだり、

よい病院があると言って入院したりしていましたが、薬も病院での治療も効果がなく、私が高校生になっ

た頃には、体全身が動かなくなり、寝たきりの状態で家にいるようになりました。その頃父親の勤めてい

た薬の仲卸の会社が倒産し、我が家は経済的にも厳しい状態に陥り、母のためにお手伝いさんを頼むこと

もままならず、父は会社の清算と自分の仕事を見い出すためにほとんど家にいませんでしたので、兄と妹

と私の3人と、私の家の近所に住んでいた父の会社に勤めていた人のお連れ合いが時々母の世話に来てく

れたりして、母の世話を何とかしていました。


・その頃の私は高校に通っていましたので、何かと理由をつけて、私は母の世話から逃げていました。そ

ういう経験をしていますので、『彼はわたしたちの患いを負い、私たちの病を担った』という苦難の僕の

預言の一節で描かれている、イエスが、患いと病に苦しむ人と真正面から向かい合い、逃げずに、自分か

ら他者である病む人の患いを負い、病を担うという積極的な姿勢に驚きを覚えずにはいられません。「患

いを負い、病を担う」ということは、イエスがその病む人と一体化されたと言ってもよいのではないで

しょうか。一体化して、その病む人に代わって悪霊の支配としての病をその人から追放しているというの

です。


・病む人にとってそういう他者であるイエスが、自分と一体となって、「患いを負い、病を担って」下

さっているということは、どれほど大きな慰めと力になるか、計り知れないものがあるのではないでしょ

うか。


・先程朗読させていただいたヘイリー・ナウエンの「癒しの触れ合い」の中に、「イエスに触れた人はみ

な、そしてイエスに触れられた人はみな癒されました。神の愛と力とがイエスから出て行ったのです(ル

カ6:19)」と記されていました。ルカ6章19節には、「群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。

エスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである」と記されています。

・その後にナウエンはこのように記しているのです。「友人が、無償の何も拘束しようとしない愛をもっ

て私たちに触れる時、私たちに触れるのは、人となられた神の愛であり、私たちを癒すのは神の力です」

と。


・「友人」は私たちと同じ人間です。私たちは友人である他者によって、また私たちが

他者である友人に対して、「無償の何も拘束しようとしない愛をもって触れる時、それが人となられた神

の愛であり、私たちを癒す神の力となる」。つまり他者を拘束しない無償の愛を持って触れ合うほどに、

お互いを大切に思い合う人と人との関係の中に、人となられたイエスの神の愛が働き、患いや病を癒す神

の力が働くと、ナウエンは言っているのです。


・本来医療の進歩や薬の発明は、他者を拘束しない無償の愛を持って触れ合うほどに、お互いを大切に思

い合う人と人との関係の中で、愛する人を何とかその病から解放したいという思いから生まれたものでは

ないでしょうか。それに資本が目をつけ、儲けの為に利用しているのが、現在の病院や製薬会社の現実で

はないでしょうか。その逆転した現実をしっかりと見据え、医療や薬の効果を無視する必要はありません

が、何よりも私たちの患いや病が「触れ合い」において癒されるということを見失わないようにしたいと

思います。


・『彼はわたしたちの患いを負い、私たちの病を担った』


・祈ります。