なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(402)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(402)復刻版を掲載します。2007年6月のものです。


       黙想と祈りの夕べ通信(402[-37]2007・6・10発行)復刻版


 先日久しぶりにKさんをホームにお訪ねしましたら、前回2月に伺ったときとは見違えるように弱ってい

て、ベットの生活になっていました。私がお訪ねしたのがちょうど午後3時頃のおやつ時でしたので、介

護の方が部屋のベットのKさんにゼリー状のおやつをスプーンで口に運んでいました。反応が大分鈍く

なっているようでした。介護の方のお話では、前回私がお訪ねしてからしばらくして発作が起き、現在の

状態になったということでした。前回の時には、少し話はすれ違いますが、私と会話ができましたし、部

屋の中を元気よく歩いてもいました。Kさんをお訪ねしたのが、Fさんの急な召天の後でしたので、私たち

の心身の衰えや死が急激にひとりの人を襲うものだとつくづくと思わされました。

 私が時々見舞っています病院やホームにいらっしゃるお年寄りの中には、ほとんど私を認識できないの

ではないかと思われる方が数名いらっしゃいます。そのような方を見舞う場合は、私はよくヒムプレー

ヤーを持っていき、その方の愛唱歌や礼拝で良く歌っている賛美歌を数曲演奏し、その賛美歌の歌詞を私

が耳元で歌うようにしています。そういうときに、目に涙を浮かべられたりする方がいたり、思わぬ反応

がある場合があります。そういう経験から、私はお年寄りとか病人というレッテルでその人を見るという

ことを極力しないように努めています。Kさんというように、名前をもったその人を大切にしたいと思っ

て、病気やお年寄りは括弧に入れて接するように心がけています。

 福音書のイエスの物語の中には病人や悪霊に憑かれた人の癒しがでてきます。先日もマタイによる福音

書8章28-34節の「悪霊に取りつかれたガダラの人をいやす」記事を説教で扱いましたが、イエスはこのよ

うな人をどのようにお考えになっていたのでしょうか。私は健康な人を見る視線と病人や悪霊に憑かれた

人を見る視線は、イエスにおいては同じではなかったのではないかと思っています。病気だとか健康だと

かは,人間にとっては存在の形であって、存在そのものではないように思うのです。ちょうど行為と存在

が異なるように、心ある親は自分の子供が勉強できようが出来まいが、そういうことと関係なく無条件に

その子の存在を肯定し、愛するでしょう。そういう人間の存在への眼差しを、イエスは健康であろうが病

気であろうがすべての他者に向けておられたのではないかと思うのです。ですから、ガダラの地方の町の

人たちと違って、悪霊に憑かれた人に対しても、イエスは悪霊に憑かれた人として対したのではなく、無

条件にその存在が肯定されている神に愛されている神の子どもとして対したのではないかと思うのです。

そこにイエスの奇跡の秘密があるのではないかと、私は思っています。

 私はイエスのようにはなれませんが、できるだけイエスの眼差しに倣って、病院やホームにいらっしゃ

るお年寄りや病人の方をお訪ねするようにしています。ある人が「存在の倫理」ということを言っていま

す。倫理という場合通常人間の行為に関係するように思えますが、存在の倫理ということは、私たちが命

を与えられてこの世に生まれてきた以上、そこに存在した者(存在させられた者)の責任が生じるという

ことでしょうか。存在する・させられている以上、生きる責任があるから、年を取ろうが病気だろうが、

生きている限り存在の倫理があるのだから、生き続けならないということなのでしょう。役に立つとか役

に立たないとかを超越して、人間存在には無条件に価値があるということでもあるのでしょう。私はホー

ムや病院にいらっしゃるお年寄りの方や病気の方をお訪ねするたびに、人間存在の深さと重さに心揺さぶ

られています。      



          「生きて存在する力を与えられる」 6月10日


 私たちは誰でしょう。私のしていることが私? 人々が私について言っていることが私? 私の持って

いる能力が私? 私たちの社会では、しばしばそのように考えられているようです。しかし、私たちに与

えられたイエスの霊によって、私たちの霊による本当のアイデンティティーが明らかにされます。私たち

は成功や名声、権力や世界に属するのではなく、神のものであるということが、聖霊によって明らかにさ

れます。世界は私たちを恐怖によって奴隷にします。聖霊は私たちを奴隷の状態から解放し、本当の関わ

りへと復帰させてくださいます。それが、パウロの言わんとしていることなのです。「あなたがたは、人

を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によって私たちは、

『アッバ、父よ』と呼ぶのです」(ローマ八:十五)。

 私たちは誰でしょう。私たちは神の愛する息子であり娘なのです。


                 (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)