なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

時間泥棒

見田宗介がインドやブラジルで過ごしたときの時間の流れについて、日本やアメリカのような国での時間の流れと根本的に違うことを、その著書で書いていた。産業化された近代社会では時計の刻む時刻によって人が動かされるわけだが、インドのまだ近代化されていない地域では、悠久の時間の流れがあり、時計の刻む時刻は人々の生活には全く関係ないというのである。見田は、そのようなインドにはまた行きたいと、現代の日本の社会で生活していると思わされるという。

同じことをもう大分前に読んだ中根千枝の本にも書いてあった。待ち合わせしていて、1時間遅れようが、2時間遅れようが、インドの人はイライラしないというのである。その待ち時間を悠久をおもい瞑想して楽しんでいるからだと。

私は、人と待ち合わせて、相手が10分でも遅れようものなら、イラついてきてしまう。遅れてきた相手には、何食わぬ顔で、大丈夫、大丈夫と言いながらも、腸は煮えくり返っている。情けない。ミチャエル・エンデの『モモ』ではないが、時間泥棒の犠牲者である。

ビジネスが中心に成り立っている産業社会では、人間は脇役に追いやられる危険性が高い。ビジネスの主は資本(富)であって、人間はその資本に仕える奴隷ということになり易いからである。この逆転した産業社会にあって、我々人間は翻弄されっ放しでいいのだろうか。だからと言って、産業社会以前の状態にかえることはできないとすれば、人間の成熟によって、資本の横暴を許さないようにする以外に、人間的な産業社会にする道はないだろう。だが、それは至難の道である。

エスは、「だれでも、二人の主人に仕えることはできない。一方憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイによる福音書6章24節)と語られた。富(資本)の魔性をイエスは見抜いていたのであろうか。

そして、「何よりも、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(衣食住)はみな加えられて与えられる」(同6章33節)と語られた。我々人間は衣食住を得るために富を求めるのだが、それは「加えて与えられる」ものだとイエスは言う。
・ 我々人間は目的を見誤った時、とんでもなく転落してしまうのであろうか?