なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

「牧師にこだわる理由」

私の尊敬していたOさんが亡くなって丸5年が経った。Oさんは私より12歳年上の人である。Oさんの同年代には他にも二人の私が尊敬する人がいるが、一人はOさんより前に亡くなっている。もう一人のHさんは今も元気にしている。

このOさんが、以前教会の総会資料の中にこんなことを書かれたことがある。「(信仰者は)言うまでもなく主の恵みに応え、信仰を深め、信仰を継承していくことが第一義であるが、同時に今日的な問題にも敏感でなければならない。・・・恵みに生かされることは感謝であるが、それがともすると、強者の奢りに
なり、差別体質が作られることもあり得る」と。

何故信仰を深め、信仰を継承していくことが、強者の奢りとなり、差別体質が作られていくことになるのか。
私は、そのような信仰の問題は、神関係を第一義に隣人としての他者との関係を第二義として段階的に位置付けるところにあると思っている。夫婦や親子、友人や恋人のような一対一の人間の関係にしろ、社会的な共同の関係にしろ、他者との関係の問題が問われた時に、信仰は神と自分の問題であるからと言って、神関係を盾にしてその問いから逃げるというこが起こり得る。このことが、その人としてどんなに誠実に信仰を深めていると信じていても、そうであればある程、その信仰が「強者の奢りとなり、差別体質が作られていく」原因になってしまうのではないか。

クリスチャンの中には大変信仰には熱心であるが、差別や人権の問題には全く無関心としか思えない人も少なくない。靖国天皇制の問題、米軍再編と基地問題、核の問題のような政治的社会的問題にも余り関心をもたない人もいる。

私は、聖書に基づくキリスト教信仰は、神関係(神と自分の関係)=他者関係(人間と人間の関係)という面をもっていると思っている。他者関係において己の神関係が問われ、神関係において己の他者関係が問われているからだ。そこにおける真実がイエスの出来事において発見できるのである。
だから、イエスの出来事は、この世の価値観に縛られ、人を差別抑圧していても気づかずにいる私たちを、その桎梏から解放し、神と人、人と人とをつなぐ真実の交わりへと、私たちを導く命の力なのである。
私が沢山の非人間的な負の歴史をもっているキリスト教にこだわり、今も教会というところで牧師を続けているのは、ひとえにこのイエスの出来事の解放性に惹かれているからである。