なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

凧の糸

「神のなさることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなさるわざを初めから終わりまで見きわめることはできない。」(口語訳)という言葉が、旧約聖書コヘレトの言葉(新共同訳、口語訳では「伝道の書」)にある。(コヘレトとは、ヘブライ語カーハール「集会」からの派生語。元来「集会主宰者」というほどの意味か。)

同じ箇所の岩波訳では、「神はすべてをその時にかなって美しく造り、加えて、それらの中に永遠〔性〕を付与した。だが人は、神が造った業の初めから終わりまでを見いだすことは〔でき〕ない。」と訳されている。

このコヘレトの言葉は、私自身の日常の体験でもある。すべての日常の出来事の中に神のみ業が隠されていると、聖書の人々と共に私も信じている。であるとすれば、「神のなさることは皆その時にかなって美しい」わけだから、日常の出来事の一つ一つには、神の美しいみ業が秘められていることになる。

だが、コヘレト同様、人である私は「神のなさるわざを・・・見きわめることはできない」のだ。自分の勝手は判断で日常の出来事を分かったつもりになり、その出来事に隠されている深い意味をつかみ損ねることが多い。

しばらく時間が経ってから、あのことの中にはこういう意味があったのかと、後から気づかされることがあるが、それもそう多くはない。ほとんどは日常の出来事の中に隠されている神のみ業を理解できないまま、日常を生きているのが自分自身の実態である。糸の切れた凧のような自分の姿を想像して、恐ろしいと思うこともある。

私が教会で日曜日ごとに礼拝に加わり、聖書を読み、祈り、黙想の時を大切にしているのは、自分の凧の糸をしっかりつかんでいてくださる方を忘れないでいたいためかも知れない。