なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

教師退任勧告

そもそも対話をしょうとせず、一方的に断罪、排除しようとする相手と話をすることは至難のことである。ほとんど不可能に思われる。

今回私は日本基督教団常議員会というところで、めでたく「教師退任勧告」なるものを受けることになった。その勧告は数日前に行われた常議員会でこれが可決されたので、まだ私の手元に文書としては届いていない。

常議員会の翌日、さっそくキリスト新聞の記者が電話をかけてきて、私にコメントを求めてきた。思うところをとうとうと語ったが、記事としてでるのは僅かで私の意のあるところは伝わらないだろう。

一体何が問題なのかといえば、いわゆるオープン聖餐(誰でも希望する人は聖餐に与れる)を私が公然としていることにあるが、それをもって「教師退任勧告」とする教団執行部の考えがどうしても分からない。

執行部は規則違反だからということなのだが、教会にとって法とは何かということについ理解が私とは余りに違うので、執行部のそのような法理解がどうしても理解できないのである。

安息日は人のためにあるので、人が安息日のためにあるのではない」というイエスの言葉は、法の限界を見事に突いている。このイエスの言葉一つからしても、イエスの出来事によって誕生した教会としては、規則規則というわけにはいかないのである。
規則を守れないのなら、教団を出て独自の教会を作るべきだというのが、執行部の考えのようである。要するに自分たちの意にそぐわない者は出て行けということである。

かつて戦時下宗教団体法の下に国家権力によって成立した日本基督教団という合同教会は、ホーリネスの教師を除名した。官憲に天皇と神とどちらが偉いかと問われ、神と答えたホーリネスの牧師は獄中に、教会は閉鎖させられた。その弾圧が自分たちに及ばないように教団はホーリネスの牧師を除名したのである。

自分たちにとって都合が悪い者は切り捨てるという自己保身は、今の教団執行部にも引き継がれているのかもしれない。組織のもつ非人間性に組織に属する者は敏感でなければならないと、私は思う。