なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

洗礼を受けた人

4月12日は教会の暦ではイースター(復活節)でした。イエスの復活とは、イエスが十字架刑によって殺されて、お墓に葬られましたが、三日目の朝女たちがお墓に行って見たら、イエスは復活してお墓にはいなかったという物語です。

私が牧師をしている教会では、今年のイースターの礼拝で一人の方が洗礼を受けました。

洗礼というのは、元々は川のような所で全身をジャブンと水中に沈めて、水の中から起き上がるという儀式です。これは浸礼(しんれい)と言いますが、私たちの教会で行っている洗礼は浸礼(しんれい)ではなく、頭に水を少しかける滴(てき)礼(れい)です。洗礼という宗教的な儀式はキリスト教に限らず、一つの宗教集団に入会するときの儀礼として行なわれていました。キリスト教でも洗礼はキリスト教徒になる入会儀礼でもありますが、洗礼には古い自分に死んで新しい人として生きるという意味が込められています。

水の中に全身を沈めることによって、一度今までの古い自分に死んで、水中から起き上がる時には新しい自分になっているというのです。古い自分は神から離れて自分勝手に生きていた自分で、新しい自分は神を信じて神に向かって生きる新しい自分です。

この洗礼は、聖書のローマの信徒への手紙6章では、イエスの十字架と復活に結びついて考えられています。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(6:4)。

その洗礼をイースターの礼拝で受けた方は、「自分は神の働き(計画)に従って、生きていきたいと思って、洗礼を志願した」という主旨のことを言われました。これは上記のローマの信徒への手紙によれば、「新しい命に生きる」道を自分なりに歩んでいきたいという決意表明のように、私は思いました。

自分の欲望が満たされることが自分の生きる意味だと思っている人には、神の働きかけを想定して、それを自分の生活の中に組み込んで生きるなどということは、それこそ想定外のことでしょう。

でも、人間は誰も、自分が生きていると思いがちですが、実は私たちの中に自分で造りだしたものは、自分の命をはじめほとんどありません。私たちは圧倒的に受けたもの、与えられたものによって生きているのです。
その受けたもの、与えられたものを感謝して、私たちに贈り物として命を与えてくれた存在(神)に応えて、自分の命も他者の命も大切にして生きていくことが、私たちが神の働きに従って生きるということなのではないでしょうか。

イースターに洗礼を受けた方が、これからの人生を神の働きに従って最後まで生きて行くことが
出来ますように!