なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ああ、神さまに会えたらなあ!

私たちは苦しみのない生活を求めます。けれども、苦しみのない満たされた生活の中で私たちはいつしか傲慢な、自分勝手な人間になっていくという、誘惑に陥ってしまうこともあります。逆に苦しみや不幸に見舞われることによって、私たちは人間として鍛えられます。私たちの信仰も、人生の不幸や苦しみを通して、深められ本物になると言ってよいでしょう。

もうお亡くなりになりましたが、私の3人の子どもに幼児洗礼を授けてくれました浅野順一先生が、私たちが人生で出会う苦しみや不幸は、人生の落とし穴であり、その落とし穴から見える世界を大切にしなければならないとおっしゃいました。苦しみや不幸に出会ったら、それを避けることばかりを考えるのではなく、そこで神さまと真剣に出会うことができるから、というのです。

詩編31編は礼拝の中で歌われた詩と言われますが、その中に人が出会った苦しみとして三つの種類の苦しみが挙げられています。

一番目、人に騙されるというか、こんなことがあっていいのかとしか考えられない、自分にはどうしても受け入れることはできない自分に敵意を持った人からの仕打ちです。「隠された網に落ちた」(5節)とあります。「私に仕掛けられた網」(月本)とも訳されています。「偽って語る唇を封じてください。/正しい人を侮り、驕り高ぶって語る唇を」(19節)。本人には納得できない不当な裁きです。

二番目は、敵の迫害です。「人々がわたしに対して陰謀をめぐらし、命を奪おうとたくらんでいます」(14節)。「追い迫る者、敵の手から助けて下さい」(16節)。

三番目は、病による心身の衰弱です。「わたしは苦しんでいます。目も、魂も、はらわたも、苦悩のゆえに衰えています。命は嘆きのうちに、年月は呻きのうちに尽きています」(10-11節)。

この詩を礼拝で歌う人々は、それぞれ自分の苦難の体験を重ねていたことでしょう。
この詩には私たちが経験するいろいろな苦しみが触れられていますので、礼拝参加者の多くの人の心に響いたことでしょう。この詩を歌った人々は、ただ苦しみの共感を抱いただけではありません。
苦しみの中で神に嘆願するのです。
「主よ、御許に身を寄せます。・・・惠の御業によってわたしを助けてください。あなたの耳をわたしに傾け、急いでわたしを救い出してください。砦の岩、城塞となってお救いください」(1-3節)と。

人は苦しみの中で、嘆願する相手をもっているということは、何と大きなことでしょうか。
嘆願する相手もなく、その苦しみを自分だけで背負わなければならないとすれば、自分自身が耐えられなくなってゆくのではないでしょうか。落ち込んで、どうしようもならないということになるでしょう。

信仰は、信じる信仰だけではどうしようもありません。信じられる信仰があって、向こう側から苦しむ私たちへ近づいてくださる方があるから、私たちは信仰にかけることが出来るのです。

「慈しみをいただいて、わたしは喜び躍ります。あなたはわたしの苦しみをご覧になり、わたしの魂の悩みを知ってくださいます。わたしを敵の手に渡すことなく、わたしを広い所に立たせてくださいました」(8-9節)。「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます」(6節)。

 この神の慈愛への信頼は希望に結びつきます。