なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

毎日ご飯を食べるように

「神は人を愛し、世界を愛したもう、理想的な人間ではなく、ありのままの人間を、理想的な世界ではなく、現実の世界を、愛したもうのである」(ボンヘッファー)。

 このような神の愛を信じ、幼な子のようにその愛の中に生きることこそ、私たちの癒しであり解放であると、私は思います。私はそのことを聖書から学んできましたし、特にボンフェッファーの著作から刺激を受け、指針を与えられてきました。ボンヘッファーには、邦訳されている「日毎の糧」に類する書物が二冊あります。一つは『主のよき力に守られて』(ボンへッファーの一日一章、村椿嘉信訳)であり、もう一つは『信じつつ、祈りつつ』(ボンへッファーの短章366日、小池創造訳)です。

 「神が何を約束され、また何を成就されるかを知るためには、繰り返し繰り返し、本当に長い時間をかけ、しかも極めて静かに、イエスの生涯・言葉・行為・苦難、そして死を思いつつ、その中に深く沈潜して行くことです」(ボンヘッファー)。そのことを通して、私たちは、神と私たちの仲介者であるイエスによって神の豊かな命、甦りの命に連なって生きることができます。

 それは、毎日ご飯を食べなければ私たちの肉体が維持されないように、私たちが人間として生きるために欠くことのできない日常的な営みです。キリスト者(クリスチャン)が毎日曜日、礼拝に集い、教会生活を日常的に欠かさずに続けてゆくのも、ある人々からは惰性で無意味な行為に思われても、キリスト者にとっては生きていく限り毎日ご飯をいただくのと同じことなのです。そのような「繰り返し」が、私たちを生かす力になるように思います。

 ブラザー・ロジェによって始められたフランスのテゼ共同体には、世界各国から多くの青年がやってくるそうです。テゼは、この混迷する時代の中に置かれた青年たちを引き付ける「何か」があるからでしょう。それは、私には「祈ること、働くこと、生きること」の一体化ではないかと思われます。

 現代の都市は砂漠化した「荒地」のようです。電車に乗る度に、しばしば人身事故のために停止を余儀なくされます。おそらく人身事故のほとんどは自死によるものでしょう。

 砂漠にはオアシスがあります。聖書によりますと、羊飼いは羊の群れを導いて、必要な時に羊たちをオアシスに連れて行くそうです。この砂漠化した荒地のような現代の日本社会に生きる私たちは、自分にとってのオアシスをどこかに見出すか、自分の心の中につくるかして、命の補給を確保し、燃え尽きないで自分らしく生きていきたいと思います。