なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

説教「のぼる」

少し長くなりますが、以前教会の「こどもと大人の合同礼拝」した説教です。

「のぼる」 使徒言行録1:6-11、
 
私は母親が20歳の時に死にました。死ぬ前の4,5年間筋萎縮症という難病で苦しみましたので、母親が死んだとき、私の中には死んだ母親に恥ずかしくない生き方をしなければならないとい気持ちが強く有りました。それ以来死んだ母親はこの世の中にはいないのですが、今も自分の中では生きているように感じています。

私にとってイエスさまも母親と同じような存在です。母親よりはもっと自分の中では大きな存在です。洗礼を受けてイエスさまと約束を交わし、イエスさまとイエスさまが私たちすべてにしてくださったことを何よりも大切に自分は生きていくと決心しました。

エスさまが十字架に磔(はりつけ)にされて殺され、アリマタヤのヨセフの所有の墓地に埋葬された後、打ちひしがれていましたイエスさまのお弟子さんたちは、三日後に復活したイエスさまの顕(あらわ)れに出会いました。ルカによる福音書使徒言行録の著者と言われますルカによりますと、それから40日の間にいろいろな人が甦ったイエスさまに出会いました。でも甦りのイエスさまはいつまでもお弟子さんたちや他の人々にご自身を顕すことをなさいませんでした。

ルカは「イエスは天に昇っていかれた」(使徒6:9)と記しています。それはイエスが復
活してから40日後の出来事でした。その後10日後のペンテコステ(五旬節)にイエスさまのお弟子たちに聖霊が送られました。肉体において私たちと同じようにこの地上に存在したイエスさまは、死んで復活して弟子たちに顕れた後、この地上から姿を消して天に昇っていかれたのです。

ルカは宇宙については当時の人々と同じように考えていました。地球は平面であり、天は頭上にあります。昼は太陽が輝き、夜は月や満天の星が輝く神秘に満ちた天は、神さまの住まいでした。イエスさまが神の栄光に迎えられるときは、イエスさまも天に昇っていくとルカは考えました。

しかしイエスさまが天に昇って行かれ、弟子たちのもとを去って行って、それですべては終ったのではありません。聖霊を送られたお弟子さんたちは肉体を持ったイエスさまがいなくなったこの地上の生活で新しい活動を始めました。

神さまの住まいである天に昇ったイエスさまのことを思って、自分たちも神さまのいらっしゃる天に行きたい。イエスさまのいないこの地上の生活には耐えられない。地上には争いや憎しみがあり、いろいろな不幸が起きます。現在でも戦争が有り、震災がおこります。失業やリストラがあり、経済の不安があります。子どもたちの中にもいじめや差別があります。天にいらっしゃる神さまのところには心地よい温かさがあるに違いない。目の前の現実の生活から天の神さまのもとに逃げ込んでしまうこともできます。神さまだけに心を向けて、隣人である人々に対する関心を持たなくなってしまうこともあります。この世の中は汚れているから、できるだけこの世の中に関わらずに清い生活をするために、この世の中から離れてただ天にいらっしゃる神さまのことを思って静かに生活をすることもできるでしょう。

しかし、お弟子さんたちはそういう道を選びませんでした。天に昇ったイエスさまは、天に昇ったときの同じ有様でまたおいでになる。だから、そのイエスさまが再び自分たちのところにおいでになるときに、イエスさまに誉められる人になりたい。そためにはこの地上でイエスさまが生きられたように自分たちも生きていかなければならないと考えたのです。そのためにイエスさまは聖霊を送ってくださったのだと。

弟子たちは、イエスさまは天に昇っていかれたが、イエスさまは天に住んでいらっしゃる神さまのところから私たちと同じ人間となってこの地上にこられ、「私たちと同じように生きて、死に、そして復活なさったのだから、神とその栄光に至る道は、人々が暮らすこの地球上にある」のだと考えました。そして、イエスさまが天に昇ってこの地上にはいなくなった後、イエスさまに代わって神さまの愛の素晴らしさを伝え、神の美しさを示すのは自分たち以外にいないと、お弟子さんたちは思いました。ですから、イエスさまのように生きるということがお弟子さんたちの使命となったのです。

エスさまは、生前お弟子さんたちにこのようにおっしゃいました。「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」(マタイ10:30)と。

実は、イエスさまは聖霊をお弟子さんたちに送ることによって、お弟子さんたちが自分に代わってイエスさまのように生きる道を用意されたのです。そしてお弟子さんたちにイエスさまは後を託しました。イエスさまを信じる者はみんなイエスさまのお弟子さんです。イエスさまは私たちに後を託していらっしゃるのです。

この地上にイエスさまが来られ、その生涯を送ることによってあらわされたよき知らせである福音は、この時からイエスさまを信じる人々の心に、言葉に、そして手に委ねられたのです。彼ら・彼女らは、心と言葉と行動でイエスさまのことを知らせる証人となりました。イエスさまの証人になった人は、新たな生をもたらす福音をあらゆる場所に、あらゆる方法で休むことなく、広めるように励まされているのです。

 ある人は、イエスさまを信じるキリスト者になることは、「もうひとりのキリスト(イエスさま)になることだ。聖霊によって力を与えられたお弟子さんたちは、イエス・キリストの大きな愛を人々に伝えていかなければならない。たとえ、そのためにイエスさまのようにすべてを与えることになっても」と言っています。

 このようにイエスさまを証しするということは、すばらしい働きです。でもそれは難しくもあります。みんなが通る広い道ではなく、狭い道を進んでいかなければならないからです。そのためにはいつも新しくイエスさまのことを感動する心をもっていなければなりません。信仰は常に新しい水を入れる器でなければなりません。新しい水が注がれませんと、器の水は時とともに腐ってしまいます。信仰も腐ってしまうことがあるのです。絶えず信仰を新しくしていかなければなりません。

 ですから、この日曜日ごとのイエスさまの行為や言葉を記念して行われる教会の礼拝が大切なのです。礼拝はイエスさまの行為や言葉を記念して行われるお祭りです。「イエス・キリストが今も世界を愛し、解放してくださっていることを知るために行われるお祭りです。このお祭りの度に、私たちは源に立ち返るのです。主イエスは地球上のすべての人々を神の家に招く喜びを示されました。聖霊はその主イエスを信じる者たちをイエス・キリストの証人に変えていくのです」。

 最後に詩のような祈りのような言葉を紹介して終ります。
「主の愛は/身体と心を疲弊させる病より/非情に判断する冷たい眼差しより/わたしたちを陥れる罪より/大きかった
 主の生命は/すべてを独占しようとする心より/人々を十字架につける憎しみより/人々に恐れを抱かせる死より/力に満ちていた
 主イエスの証人となったわたしたちは/平和で、愛情にみちた地球をつくるために/それぞれ歩きはじめた」(『イエスと出会う』221頁)。