なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

人が友のために

 「イエスの喜びが満ちるために」ヨハネ福音書15:11-17、
                 2009年9月6日(日)合同礼拝説教要旨
・ちょうど今から50年前に、私は高校生でしたが、この教会の礼拝にはじめて出席しました。11月の最初 の日曜日でした。その頃教会には高校青年会、通称KKSという高校生の会がありました。KKSのリーダー は今年3月に小田原教会の牧師を引退しました髙橋敬基さんでした。その年のクリスマスに高橋さんが 書いた脚本で劇をすることになっていて、クリスマスに向けて練習が行われていました。その劇の脚本 の基になった聖書の箇所が、先程朗読者に読んでいただいた、ヨハネ福音書15章11節以下で、特に【友 のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない】(15:13)というイエスの言葉でした。
・当時は口語訳聖書でしたので、「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はな い」でした。その時の劇のことは殆どわすれてしまいましたが、この言葉は、強く私の心に残りまし  た。
・確か青函連絡船の洞爺丸の事故で、海に投げ出された人に、自分の浮き輪を与えてその人を助け、自分 は死んでいった宣教師がいて、その宣教師の行為が賞讃されていましたので、「人がその友のために自 分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」を実証した宣教師ということもあって、この言葉が 私にインパクトを与えたのかも知れません。
・高校生だった当時の私は、この言葉の真実に惹かれながら、「友のために自分の命を捨てる」ことな  ど、普通の人間にはできっこないと思っていました。でも、反面そういう愛の世界があったら素晴らし いだろうなあとも思っていました。
・その頃の私は、自分自身を含めて人間不信に陥っていたように思います。ですから、「人がその友のた めに自分命を捨てる」なんてあり得ないという気持ちが強かったと思います。しかし、毎週日曜日教会 の礼拝に参加するようになって、イエスは違うかもしれないというように思うようになっていきまし  た。
・中学校からキリスト教主義の学校に行っていましたから、学校で聖書を学び、礼拝もありましたが、イ エスについて知らなかったわけではなかったのですが、教会の礼拝に出るようになって、改めてイエス について考えるようになりました。普通の人間は、友のために命を捨てることはできないが、イエスだ ったらできるのかもしれないと思うようになっていきました。
・私は教会に来てから1ヵ月半くらいで洗礼を受けましたが、その時の自分の信仰告白は、イエスは私を 含め私たち人間を裏切らないから、イエスと一緒に生きていきたいということでした。つまり、イエス から離れないで、イエスと繋がって一生を過ごしたいといことです。
・「人がその友のために命を捨てること、これよりも大きな愛はない」という言葉は、何よりもイエス御 自身に当て嵌まるのではないかと思いました。そういうイエスと繋がって一緒に生きて行けるというこ とは、当時の私には闇の中で光を見出した思いでした。自分の生きる道を見出すことができたという気 持ちで一杯でした。
・それから50年経ちましたが、今でもその時の、イエスと一緒に生きていきたいという自分の気持ちは間 違っていなかったと思っています。
・人間は誰も孤独です。もちろん親しい友だちや家族の人たちとの絆によって、孤独がいやされます。し かし、人間同士の絆は絶対というわけではありません。破れがないとは言えません。「人がその友のた めに自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」と言われるほどの愛を、みんなが持って一生 を生きることができるわけではありません。
・イエスは自分を裏切らないという風に思えたとき、自分の眼差しはイエスを裏切っても、イエスの眼差 しは一貫して自分のために注がれていて、変わらないという確信を与えられました。そのイエスの眼差 しは、「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」という、「大きな  愛」の眼差しそのものです。
・このイエスの「大きな愛」の眼差しによる世界の中に迎え入れられて、イエスと繋がって生きることが 許されていることの恵みを思います。
・「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人に つながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからであ る。」(15:5)。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にと どまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を 守るならば、わたしの愛にとどまっていることになる」(15:9-10)。「あなたがたがわたしを選んだ のではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るよう にと、また、私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命し たのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」(15:16-17)。
・ここにはイエスによって形成されている磁場のような世界が言い表されています。それがイエスの「大 きな愛」の眼差しによる世界です。人がその友のために自分の命を捨てるほどに、お互いが他者中心に 愛し合って生きる世界です。このイエスの世界は福音書で「神の国」と言われている、神のみ心が生き て貫かれている世界のことです。
・こんな私でも「友」として受け入れてくれるイエスと繋がって生きる私たちは、神の国の子どもなので す。私の中にある自己中心の古い自分は、自分を喜ばそうとします。しかし、自分の中にある神の子ど もとしての新しい自分は、イエスに喜こんでもらおうとします。
・いつもその葛藤はありますが、私はイエスと繋がって最後まで生きていきたいと思っています。
・祈ります。