なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

来なさい!

ぼくが洗礼を受けたのは、1959年12月のクリスマスです。高校3年生でした。

その頃のぼくの家庭は、大変不安定でした。母が筋萎縮症という病気で、体が全く動かず家で寝ていました。父は会社倒産後に自分で小さな会社を作って仕事をしていましたが、思うようにはいきませんでした。

ぼくは大学進学をあきらめて、高校卒業後は父の仕事を手伝うようになりました。ぼくが神学校にはいったのは、高校卒業して3年後の1963年4月でした。その間に病気だった母は亡くなっていました。この時に、自分の生涯の仕事ということからすると、現在に至るまでのぼくの道が決まりました。

ぼくが自分でこのぼくの道を選び、その道を歩み出すまでは、自分で自分の人生の道を選んで歩んでいるという思いは、ぼくの中にはほとんどありませんでした。周りから決められた道を、ときどき息苦しくなることがありましたが、仕方なく受け入れていたのだと思います。

でも、ぼくにはぼくが自分で選んで生きていく道があるのではないかと、ずっと思っていました。けれども、ぼくの中には、こうありたいという願望はいろいろありましたが、ぼくに対する父親や周囲のひとたちの期待に逆らってまで、自分の願望を貫くまでの思いはありませんでした。ですから、いつも、もやもやとしたものがぼくの心には満ちていました。

そんなぼくにだんだんと、「こっちに来なさい」という呼びかけが聞こえてくるようになりました。母が亡くなった頃からです。

「あなたは、皆が考えるのと同じことを考えなくともよいのだ。皆が行なうのと同じことを行なわなくともよいのだ。あなたは、自分としての顔だちをもち、自分としての理解力をもっている、独りの、固有な人間である。来なさい! 神があなたについて抱いておられるような人となりなさい。あなた自身となりなさい。あなたにそれができる。私はあなたを支えよう」(J.ツィンク)という声です。

ぼくはそういう声を聞いたように思って、神学校へいき牧師になりました。その時は、父親を悲しませたかも知れませんが、何年か後には分かってくれたようです。

新約聖書からは、わたしたち一人一人に、その人でなければ生き得ない固有の人生へと招く「来なさい!」という呼びかけが聞こえてくるように思います。その呼びかけに自分で応えて生きていくならば、他人やこの世の中のせいにしないで、苦しいことはたくさんあるけれども、人生を前向きに生きていかれるように、ぼくは思います。