なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

まなざし

むかし読んだ絵本ですが、「はじめてのお使い」という絵本があります。お母さんからお使いをはじめて頼まれた小さな子どもが、ちゃんとできるかという不安と役割を与えられた喜びとが混ざり合った思いをもちながら、頼まれたお使いをすることができたというお話だったと思います。小さな子どもに とってのお使いは、大人にとっての労働と言ってよいでしょう。

大人になると、私たちは働かなければなりません。
では、何のために人は働くのでしょうか。働かないとお金がもらえないからという人がいるでしょう。
お金がないと生きていくことができないからです。
それは「食べるために働く」ということでしょうか。では、お金があったら働かないでしょうか。

姜尚中(カンサンジュ)は『悩む力』にこんな話を書いています。かなりの資産家の息子さんがいて、突然父親が亡くなったため、一生食べていくのに困らない遺産が入りました。おかげで、その方は40歳近くまで、仕事ではない学問の研究をして暮らしてきました。ところが、その方はずっとコンプレックスの塊だったというのです。それは「自分は一人前ではない」という意識です。資産のあるなしにかかわらず、「働いていない」ということが、想像以上にその人の心に重圧をかけたのです。
 
また、姜尚中は、ワーキングプアに関するNHKのテレビ番組に出ていた30代半ばのホームレスの男性のことに触れています。彼は公園に寝泊りし、ゴミ箱から週刊誌などを拾って売り、命をつないできたのですが、運良く市役所から、一ヶ月のうち幾日か、道路の清掃をする仕事をもらうことができたのです。そして働いている時に、人から「ご苦労さま」と声をかけられたのです。「以前は、生まれてこなければよかったと言っていましたが?」という取材者の問いに、「今も、そう思う」と答えた彼は、ちゃんと社会復帰すれば、生まれてきてよかったとなるんじゃないか、と言って言葉をつまらせます。そして、前だったら泣かなかった、普通の人間としての感情が戻ってきたのかもしれない、と言うのです。

姜尚中は、これはとても象徴的で、「人が働く」という行為のいちばん底にあるものが何なのかを教えてくれる気がすると言い、それは、社会の中で、自分の存在を認められるということなのだと。姜尚中はそれを「承認のまなざし」と言います。

私は、詩編127編の1節を読んでいて、わたしたち人間が働くことの更に深い根拠のようなものを示されたように思います。ここには、「主御自身が建ててくださるのでなければ 家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ 町を守る人が目覚めているのはむなしい」と言われています。

家を建てる大工さんや夜町を守るために見張っている人は、自分が生きていくために、また、建てた家に住む人や町の人が喜んでくれるために、その仕事をしているとも言えます。社会的な他者の承認のまなざしが、大工さんや見張り人の人にはあるので、働いてゆく根拠になっていると言えます。

けれども、この詩編は、さらにもう一つ人間が働くことの深い根拠を示してくれています。それは神が働いておられるということです。社会的な他者の承認のまなざしとは別に、神のまなざしが私たちの上に注がれていることを、この詩編は語っているのです。

私は、人にこの神のまなざしが注がれているといことは、たとえ状況によっては、家族や社会的な他者のまなざしの承認が得られない場合でも、神のまなざしの前に自分はどうしてもこう生きる外ないという生き方を選ぶ自由を、私たちに与えているように思えてなりません。