なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ただの人として

 『パパラギ』という本があります。「はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集」です。文明人であるヨーロッパの白人の生活をツイアビが見て感じたことが批判的に書かれています。その一節に、自分の頭や手を「おれのもので、おれ以外のだれのものでもない」と白人が言うのは、たしかにそのとおりで正しい。だが自分の庭にあるヤシを「このヤシはおれのものだ」と、まるでヤシの木を、自分で生やしでもしたかのように言うのはおおしい。「なぜかというと、ヤシは、決してだれのものでもない。ヤシは、大地から私たちに向かって差し伸べたもうた神の手だ。神はたくさんの手を持ておられる。どの木も、どの花も、海も空も、空の雲も、すべてこれらは神の手である。私たちはその手を握って喜ぶことは許されている。だがしかし、こう言ってはならない。『神の手はおれの手だ』。しかしパパラギ(白人)はそう言うのである」とあります。これは私たちの社会では法律で保証されている私有財産についての素朴な疑問です。

 詩編8編にも、酋長ツイアビがヤシの木について言っていたのとほとんど同じことが、晴れた日の夜空に輝く月や星について言われています。「あなたは天を、あなたの指の業を わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの」(4節)。また、神の「御手によって造られたもの」として「羊も牛も、野の獣も 空の鳥、海の魚、海路を渡るもの」(8、9節)があげられています。さらに私たち人間についてもこう言っています。「そのあなたが御心に留めてくださるとは。人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。」(5節)。そして6-7節では、創世記の創造物語から「神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるように その足もとに置かれました」と。

 「(神の)御手によって造られたすべてを治めるようにその足もとに置かれた」ということは、酋長ツイアビが私有物となっているヤシの木について言っていますように、私たち人間が神さまの造られたものを自分のものだと言って、自分勝手に使っていいということではありません。むしろ酋長ツイアビのような考えの方が、神の「御手によって造られたすべてのものを治める」という、神さまによって造られた人間本来の姿ではないでしょうか。

 神さまが私たちをお造りになったのは、そういう人間として私たちがこの世界の中で生きていくことでしょう。神さまがご自分の似姿に人間をお造りになったのは、私たち人間を通してこの世界に、その独り子を与えたもうほどにこの世と私たち人間をかけがえのないものとして大切にされる神さまの御心を現すためです。イエスさまは、そのような神さまの御心のままにこの世に生き、死んで甦られて、今も私たちに、「わたしに従ってきなさい」と招いてくださっています。

 イエスさまはこの世の中で「まことのひと」「本当の人間」、真に普通の「ただの人」として、その生涯を歩まれました。「そういうイエスさまを祭り上げて、その祭り上げたイエスの側に自分を特別に置くのではなく、イエスさまのことなぞ考えずに、イエスさまのように、特に最後のイエスさまのようになるのが最もいいのです」(佐藤研)。

 神さまに造られ、命与えられた「ただのひととして」、神さまの造られた自然の恵みを感謝しつつ、同じ「ただのひとである」他者と共に、造り主である神さまをたたえて生きていきたいと願います。