なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

説教「祈りの格闘」

「祈りの格闘」創世記32:23-31、マタイ26:36-46、

・本年5月に98歳で召されたYさんが、生前常々おっしゃっていたことがあります。大学生の最愛の息子を 事故で失って、神はなぜ自分の息子を奪ったのかが分からずに苦しんでいたそうです。彼女は、その頃 フェリスの同窓会の会長をしていて、たまたま私が出た神学校の校長を辞めてフェリス女学院の院長に なっていました桑田秀延先生に、そのことをお話してお聞きしたそうです。どうして私がこのような目 にあわなければならないのかと。すると、桑田先生は、「私にも分かりません。Yさん、神さまにぶつ かりなさい」とおっしゃったというのです。Yさんは、この桑田先生の言葉が心に響いたようです。晩 年教会にも来れなくなってから、年に1回私がお訪ねする度に、繰り返しこのことをお話しなさいまし た。

・人には誰でも背負わなければならない重荷があります。私たちは自分の重荷を背負いながら神にぶつか っていくのです。重荷を背負っている者にとって、重荷が肩に食い込んで重くて辛くて生きていくのも 苦しいという状態から解放されるのは、その重荷が軽くなることです。重荷が軽くなるのは、重荷がな くなるからではありません。自分の重荷を背負いながら、神との格闘によって、その重荷が神から与え られた重荷として、神もまた自分と一緒にその重荷を背負ってくれていることを信じられる時ではない でしょうか。

ゲッセマネのイエスも、まさにそのような神との格闘を経て、十字架への道を一歩一歩進んでいくこと になります。このゲッセマネでの祈りには、自分の身に迫ってくるであろう苦難の厳しさに恐れおのの いている人間イエスの姿が描かれています。

・古代教会はこの人間イエスの苦悩の姿を、イエスは神であるという信仰のゆえになかなか認められなか ったといわれます。逆に現代思想は、暗闇の中で神に絶望する、一人の祈る人間の物語として理解する と言われます。

・しかし、福音書のマタイのゲッセマネの祈りにおけるイエスは、古代教会のイエスでも現代思想のイエ スでもありません。「「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、 わたしの願いどおりではなく、御心のままに」(マタイによる福音書26章39節)と、イエスは祈りま  す。このイエスの祈りは、「敬虔の、服従の、そして信頼の行為であり、絶望の行為」ではありませ  ん。「イエスの悲しみ、不安、絶望もまた、マタイにとっては、神にずっと支えられたままでありまし た。イエスは決して神に見捨てられてはおらず、神なしではなかったのです」(ウルリッヒ・ルツ)。

・ルツは、またこのように述べています。「《我らと共なる神》として、イエスは正当な神の子、人間が そうあって良いもののモデルである。苦難する義人という聖書的伝統は、ゲッセマネにおけるイエスの 物語と全く同様に、義人の生き生きした敬虔には、常に苦情と信頼、自分自身の願いと神の意志への恭 順が属している。両者は相互から切り離されることを決してしていない。なぜなら、神は人間の生ける 伴侶(パートナー)であり、いける人間を自分の完全さでもって過大に作り上げ、そうして人間がもは や人間的であることを許さないような、上位に位置する完璧な機関ではないからである。悲しみ、不  安、願い、それに苦情は、克服されることが肝要な、肉の弱さの一部ではなく、現に生きられた神の前 での義の一部である。イエスの情動は、『正しい』キリスト論において最もよく除去され、また人間生 活において為し得る限り克服されるべき、人間の否定的な部分ではまさにないのである。このような義 人のモデルにおいて、不安は自分の居場所を持ち、またこのような敬虔者のモデルにおいて、神への絶 望は自分の居場所を持つのである」。

・「神共にいまし給う」イエスにおいてと同様に私たちにおいても、不安も絶望もその居場所を持つと  いうメッセージに、私は深い慰めと希望を感じます。