なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

決め付け

私たちの中に、ともしますと他者に対してその人のありのままを受けとめようとするのではなく、自分の決めつけで他者を判断してしまうことがあるのではないでしょうか。最近ある本を読んでいて、「決めつけ」について、大変鋭いことを書いた小文に出会いましたので紹介します。

「『彼はこういう人だ』、どうしてこうも私達は人を決め付けるのが好きなのでしょう。それが間違っているというのではないのです。むしろ当たっている場合は多いし、必要な場合だってあります。それができる程に正確に相手を読めないようでは、遅れをとることも事実です。ただ決め付けるということは、自分の心が相手のいのちから離れた有り様をしていなければ、決してしないことに気付いていたいのです。それは、自分自身のいのちからも離れている死の相のことです。決め付けることにおいて、私達は相手も自分も殺しています」(藤木正三)。

「決め付けることにおいて、私達は相手も自分も殺しています」というところに、はっとさせられました。

実際に自分自身のことを振り返って見ましても、自分の中には、他者から一面的に決め付けて見られると、それが本当の自分だろうかという疑問がわいてくるほど、自分でもよく分からない複雑で多様な自分がいるように思われます。

人のいのちとは、そのような混沌としたものを内に含んだ営みなのでしょう。とすれば、混沌を内に含んだいのちを生きる一人の他者を理解しようとするには、忍耐強く他者に聞き続ける以外に道はないのかも知れません。

ところが、現実の私たちの社会では他者から聞く忍耐が弱く、決め付けと力で他者に聞かせる暴力が優っているように思われます。相手も自分も殺してしまのではなく、相手も自分も生かすために、私達は他者に聞く忍耐をもっともっと身につけたいと願います。