なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(33)

   「天につばをはく」 マタイ7:1-6、2019年4月28日(日)船越教会礼拝説教


・「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」(マタイ7章1節)。


・この「人を裁くな」という言葉は、人間はかくあるべきだという律法の言葉として聞くか、それとも喜

ばしき福音の言葉として聞くかによって、根本的に違って聞こえてくるのではないかと思います。


・「人を裁くな」という言葉を律法の言葉として聞くならば、私には少なくとも不可能な戒めであるとい

わざるを得ません。


・もともと「「さばく」、クリノーという言葉は、あるものとあるものを区別する、分けるという意味の

言葉ですから、「人を裁くな」ということは、人のことをああだこうだと「いっさい判断するな」という

ことになります。


・私たちは、小さな頃からの自分自身の成長の過程を振り返って見ますと、むしろああだこうだというい

ろいろな私たち自身が区分けされてきましたし、人を区分けしてきているのではないでしょうか。あの人

は上品だとか、下品だとか品定めすることも、その一つです。そこには人を自分よりも高くみたり、低く

見たりする段階づけが表れているように思われます。品性というような人間を区分けする基準線があっ

て、それによって人を品のよい人とか品の悪い人というように判断するのです。


・子どもたちが集団生活をするようになりますと、ああしちゃいけません、こうしなさいという、いろい

ろな枠組みにはめられていきます。そういう人を区分けする基準線がいろいろ沢山あって、段々社会化さ

れていくわけですが、幼い子どもの自由奔放さが失われていって、みんな同じような人間になって行くわ

けです。特に日本の社会のように個性を大切にする教育ではなく、子どもたちを共同性の中に均一的に囲

う傾向の強い学校社会を経ていくことによって、違う個性をもった子どもたちが同化されてしまいがちで

す。自分を殺して社会に同化していくことによって、何か窮屈になってしまっているところが私たちの中

にはあるように思うのです。ですから幼子の遊んでいる姿を見て、自由でおおらかでのびのびとしている

様子に、自分の中に失われてきてしまったものを感じるのではないでしょうか。


・「人を裁くな。人から裁かれないためである」というイエスの言葉は、いろいろな基準線によって自分

も人も区分けすることを身体化させられてきたし、自分もしてきた私たちの多くの者にとっては、とても

受け入れられない言葉でしょう。けれども、考えようによっては、自分も人も区分けして判断する必要な

ど一切ないのだという解放の言葉として、このイエスの「人を裁くな」という言葉を理解するならば、こ

のイエスの言葉に自由への誘いを感じることが出来るのではないでしょうか。


エドワルド・シュバイツアーは、このマタイの箇所についてこのように述べています。

「イエス自身はおそらく、われわれが人々を、そしてとりわけわれわれ自身をその中へと組み入れようと

しているあらゆる範疇から徹底的に解放することを目標としている」と。


・そして、「われわれがもはや裁く必要がないということ、つまり、われわれをも他の人々をもより高

く、あるいはより低く段階づける必要がもはやないということ、またわれわれが裁かれることがないとう

ことが本当に通用するところでは、・・・・あのひびきが高くひびく。神がわれわれの行動をそれにもかかわ

らず非常に真剣にとり、それを見、それを忘れようとはしないということは、今述べたことと少しも対立

するものではなく、それはこの言葉を完全に真剣にとることである。・・・もっともこのように語ることの

できるのは、自分が本当に神の前に立っていることを知っているものだけである」。


・横田勲牧師は、『傍らに立つ機戮箸い説教集の中で、今日のテキストを扱っている説教を掲載してい

ます。その説教題は「人をさばけ」です。


・その説教の中で、横田さんは、「さばくな」という訓えに触発されて「さばけ」と言った場合、ただや

みくもに相手の非を難ぜよ(相手を非難せよ)ということではありますまい、むずかしことではなく、た

だありのままの自分として立ちなさい、ということでありましょう」と言っています。


・この「ありのままの自分として立つ」ということは、「われわれが人々を、そしてとりわけわれわれ自

身をその中へと組み入れようとしているあらゆる範疇から徹底的に解放すること」でもあります。それは

「自分が本当に神の前に立つこと」であり、そこではじめて私たちは「ありのままの自分として立つ」こ

とができるのではないでしょうか。


・私たちは日々社会の中で生きています。その日常的な場では、私たちを強制する様々な枠組み、範疇に

合わせて、私たちは仮面をかぶって生きていることが多いのではないでしょうか。政権放送をテレビで観

ていますと、議員の質問に答える大臣や官僚の姿は仮面人間としてしか映りません。本心を語っているの

ではなく、ただ無難に役割をこなしているに過ぎないとしか思えないからです。その大臣や官僚の姿を見

ていると、「人のふり見て我がふり直せ」と言われていますように、自分もそうして生きているのではな

いかと反省させられます。それとは対極にあるのが、「ありのままの自分として立つ」ことです。


・おそらく日常生活の中で、ひとりの時間を持てて、神に祈る時に、私たちは社会的な仮面を捨てて、あ

りのままの自分として立っているのではないでしょうか。その神に祈っているありのままの自分として、

神に祈る時だけではなく、日常的な職場や家庭や様々な他者との交わりの場にも立つとしたら、どうなる

でしょうか。


・横田勲さんは、「ある人が不退転の覚悟でありのままの自分として立つとき、それはだれからも批判さ

れるような位置に立つことであり、そのとき、その人は、意識するしないにかかわらず周囲の人々をさば

いているのです」と言っています。そして「イエス様は偉い人だからさばけたのであってわれわれ凡人は

さばいてはいけないというのは逃げ口上です。主イエスに従う人も『さばく人』でなければなりません。

『さばく』という言葉があまりに強く響きすぎれば『相互批判』という言葉に変えていってよいと思いま

す」と言っています。


・つまり、イエスに従うキリスト者は、祈る時だけではなく、様々な他者との関係を生きる生活の場で、

エスと同じように神の前にありのままの自分として立って生きるので、当然意識するしないにかかわら

ず周囲の人々をさばいていることにならざるを得ません。何故なら、社会的な仮面をかぶっていれば、他

者との違いは隠れて、同化だけが目立ちますが、ありのままの自分として立つと、自分と他者との違いも

当然明らかになります。そのことは結果的に自分の量りで他者を計ることになりますから、その人を裁く

ことになるわけです。相互に裁く関係は、相互批判の関係ということになります。


・さらに横田勲さんは、「『批判』という行為は、すぐれて人間的行為です。批判をするということは、

自分と相手との違いを心から悲しみ、苦痛と感ずる者が、相手に歩み寄ろうとする行為だからです。相手

を変えたいと思わないような関係はなれあいにしか過ぎません。批判をするものは、『同じはかりで、自

分も量り与えられる』ことを知っています。そうでなければ悪口に過ぎません。批判者とは、他者との違

いを埋めるために、まず自ら、相手だけでなくだれからも見える地点に自らを置く者のことです。具体的

にだれからも反応がなくとも、自ら発した言葉によって自らが絶え間なくさばかれる地点に自らを突き出

す者のことです。だれからも反応がないままに自分の言葉でさばかれ滅びる人は数多くいるのです。恐ろ

しいことです。『さばけ』とは、『さばくな』が現実から遊離して〈戒律〉として一人歩きしていった失

敗を繰り返さないように気をつけながら、その恐ろしさに耐えることなのです」


・私は、イエスの「人を裁くな」が、もはや裁く必要のない世界の到来を告げた福音の言葉であるという

ことと、横田さんの「ただありのままの自分として立ちなさい」という「人をさばけ」ということが、そ

の底で繋がっている一つのことのように思えてなりません。


・この「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」(マタイ7章1節)という言葉が出

ているルカによる福音書6章37-38節の並行記事をみますと、そこには「赦しなさい。そうすれば、あな

たがたも赦される」(ルカ6:37)という言葉も出ています。ちなみにルカによる福音書6章37節を読んで見

たいと思います。


・<人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、

あなたがたも罪人だと決められることはない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される>(ルカ

6:37)。


・学者は、「おそらく神の二つの働き…裁きと赦し…を述べるルカの方が古い伝承形(Q)をとどめてい

ると思われる。マタイがQ伝承の一側面のみを取り上げたのは、『主の祈り』の一箇所を倫理的視点から

強調する6:14-15において赦しの必要性を既に述べたからであろう」と言っています。


・「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」(マタイ7章1節)というイエスの言葉

は、最終的に、私たちが神の裁きと赦しの下に「ありのままの自分」として立たされることを踏まえて、

その終わり、終末から、今ここでの過渡的な(過ぎ去るべき)この歴史社会での生活を生きなさいとい

う、イエスの招きの言葉ではないでしょうか。