なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

説教「まだ望みがある」

 以前教会の礼拝で語った説教です。私のブログとしては少し長く成りますが、読んでいただければ幸いです。


「まだ望みがある」 IIコリント5:17-19、子どもと大人の合同礼拝説教
 
エスさまは十字架にかかる前に弟子たちの裏切りを予告しました。「あなたがたは皆わたしに躓く」マルコ14:27)とおっしゃいました。みんな逃げて、わたし一人を残していなくなるだろうとおっしゃったのです。するとペトロは「たとえ、みんなが躓いても、わたしは躓きません」と言いました。ペトロは本当にそう思ったのでしょう。イエスさまを尊敬していましたし、お弟子さんたちの中でもイエスさまの一番弟子だと、みんなも思い、自分も思っていたからです。そんな自分がイエスさまを一人置いて、逃げ出していなくなるなんてあり得ないと、ペトロは心の中で本当に思っていたに違いありません。

エスさまが実際に十字架につけられて殺されて死んでしまうということが、どんなに恐ろしいことであるのか、ペトロには、その時にはまだよく分かっていませんでした。尊敬し信頼するイエスさまを自分が見捨ててしまうなどと、ペトロは全く考えられませんでした。イエスさまを見捨てる自分が自分の中にいるなんて、ペトロには思いもよらないことだったのです。

でも、イエスさまは知っていました。どんなに立派なことを言っていたとしても、いざとなったらお弟子さんたちは自分が一番で、自分を護るためにわたしを捨てるに違いないと、イエスさまは見抜いていたのです。そういう弟子たちであることを知った上で、イエスさまは彼ら・彼女らを自分の弟子として受入れて、一緒に行動してきたのです。けれども、ご自分が十字架にかからなければならなくなった時に、弟子たちに「あなたがたはみな躓く」と言わなければなりませんでした。それが弟子たちの真実の姿であるからです。格好のよいことを言い、自分の外側をいくらよく見せようとしても、人は自分の心をごまかすことはできません。自分の心が自分を第一に考え、自分を護ることに向けられているとすれば、自分に危険や危害が加わるとわかれば、たとえ尊敬し信頼しているイエスさまであったとしても、弟子たちは捨てて逃げるのです。ペトロはそのような自分自身の姿にまだ気づいていません。ですから、「たとえ、みんなが躓いても、わたしは躓きません」(マルコ14:29)と自身満々に言ったのです。

エスさまはそのようなペトロに向かって、「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うだろう」(マルコ14:30)。

大変厳しい言葉です。でも、その姿がどんなに醜く、破れに満ちたものであったとして、わたしたちは本当の自分の姿を知らなければ、そういう自分から抜け出すことはできません。ですから、ペトロにペトロ自身の本当の姿を知らせるために、「あなたは、今日、今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うだろう」と、イエスさまは敢えてペトロにおっしゃったのだと思います。その意味では、このイエスさまの言葉は、大変厳しい言葉ですが、ペトロのことを心から思っておっしゃった言葉だと思います。

しかし、ペトロは力を込めて言い張ります。「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(マルコ14:31)と。「皆の者も同じように言った」(同)とマルコによる福音書には記されています。

この時はまだ、ペトロも他のお弟子さんたちも、イエスさまを十字架につけようとする死の闇の深さ、そしてその暗闇の力の恐ろしさを知りませんでした。イエスさまはその暗闇の力に一人体を張って立ち向かうのです。自分たちと同じイエスさまの弟子であったイスカリオテのユダの裏切りによって、イエスさまは逮捕され、大祭司邸に連れて行かれます。審問が行われ、権力者たちはイエスさまを磔にしようと画策します。

ペトロもイエスさまが連れて行かれた大祭司邸に忍び込み様子を伺っていました。接待の女の人がペトロを見つけて、「この人もあそこにいるイエスと一緒だった」と言います。ペトロは咄嗟に「あんな人は知らない」と三度言ってしまいます。イエスさかの予告が事実その通りになってしまったのです。「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と、言い切ったペトロは、どこに行ってしまったのでしょうか。

ここにペトロの絵があります。
「この魅惑的な小さな絵には、忘れられない悲しみが表されています。それは、自分自身のおろかさを嘆くという、もっともつらい悲しみです。伝説では、長年嘆き続けたためにペトロの頬には、いく筋もの深いしわが刻まれたそうです。ただ、ここでは彼は恥じて顔を覆って、何も見えないまま、閉じた扉から扉へ、よろよろと歩いています。後ろには出口があるのですが、ペトロはみじめさにわれを忘れ、出口を探すこともできません。彼は、イエスさまを否定した悪夢から逃れようとしてよろめき、痛く小石に躓いています。この、息がつまりそうな絶望、救いようのない苦しみ、くずおれるような恥ずかしさ・・・・これはみな、信じていた自分の姿が偽りだったと、突然分かった結果です。・・・・・彼が今感じているおそれは、自分のことです。それは、自分の誠実さを疑う、おそろしさです。彼は、仮面を取って自分を見たのです。そして、自分にはもう価値がないと、思ったのです。
 一番大切な問題は、これからどうするかです。彼は永久に自分の顔を隠し続けるのでしょうか? ユダのように落胆して自殺でもするのでしょうか? ・・・・・ペトロは今、自分の本当の弱さを知り、かつてなかったほど強く、イエスに頼るようになるのです。彼は、偽りの力からではなく、やむにやまれない必要からイエスにしがみつきます。」(『私たちの間のイエス』66頁)。

今日の説教題は「まだ望みがある」とつけました。それは例えば現在の世界情勢にまだ望みがあるという意味ではありません。暗い闇のような自分の生活が状況としてまだ変わる望みがあるということでもありません。そういうことは有り得るでしょうが、そのことにまだ望みがあるというのではありません。

私たち一人一人が「悔い改め」て、イエスさまを本心から信じて自分を投げ出してイエスさまと一緒に生きていくチャンスが、すべての人に与えられているのです。ですから、「まだ望みはある」のです。

パウロはそのことを、今日読んでもらいました聖書の箇所の少し前のところで、このように言っています。「わたしはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、じぶんのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」(2コリント5:14,15)。自分のために生きることはできなくても、私たちは私たち一人一人のために死んで復活されたイエスさまのために生きることができるのです。それが本当の自分のためになるのです。

ペトロはそのことを発見したとき、顔覆いをとって、出口を探してイエスさまとともに、イエスさまが歩まれた道を一歩一歩自分も歩んで行く人に変わりました。「だから、キリストに結ばれている人はだれも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」のです。わたしたちもこのキリストにある新しさを生きて行きたいと思います。