なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

説教「小さな声」

「小さな声」 使徒言行録16:6-10、降誕前第8主日  2009年11月1日(日)合同礼拝説教

・今私たちが属する日本基督教団というところでは、「日本伝道150年」ということで、イベントが行わ れています。すでに6月24日でしたが、日本基督教団が生まれた日に記念の集会が行われました。11月2 3日が記念式典でこのイベントのメインの集会が予定されています。

・しかし、この記念イベントについては、企画のときから問題があるという声があり、沖縄ではベッテル ハイムの伝道が150年より前の163年前に行われていますので、日本伝道150年という区切りからをする と、沖縄を切り捨ててしまうことになるのではないかという声です。

・これは日本基督教団の中では小さな声です。同じ仲間の小さな声は、日本基督教団では大きな日本伝道 150年という声によって全体としてはかき消されてしまっています。

・私たちの中では、たとえば100人いるとしますと、90人からでる大きな声が10人から出る小さな声を圧 倒します。小さな声は無視されて、大きな声が取り上げられます。それが多数決で民主主義にかなった ことと考えられています。

・ところが多数決では決められないこと、決めてはならないこともあります。たとえ少数であっても、そ の声を聞き受け止めなければならないことがあるからです。教会はむしろそういう人々によって無視さ れがちな小さな声に耳を傾けていくところではないでしょうか。

・今日の聖書の箇所は、パウロたちの二回目の伝道旅行で、出発して間もない頃の出来事が記されていま す。ここには最初予定した場所を二度変えたことが記されています。6節と7節にそのことが記されてい ます。

・「聖霊から禁じられて」(6節)、「イエスの霊がそれを許さなかった」(7節)と言われています。  「それで、ミシア地方を通ってトロアスに下った。その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケド ニア人が立って、『マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けて下さい』と言ってパウロに願っ  た」というのです。

パウロはこの幻で一人のマケドニア人の「・・・わたしたちを助けてください」という小さな声を聞い  て、その声をマケドニア人に福音を告げ知らせるために、神が自分たちを呼んでいると、確信するに至 ったというのです。

・ここで「助けてください」と訳されている言葉は「ボエーセオー」という言葉ですが、ボエーは叫び、 セオーは走るという二つの言葉がくっついてできた言葉です。玉川直重さんは「悲鳴を聞いて駆け寄  る」と訳しています。それが「助ける」ということです。そこで福音の宣教、つまり伝道が行われると いうのです。この福音宣教には「善きサマリア人」の業が伴っていると言えるでしょう。むしろそうい う「悲鳴を聞いて駆け寄る」という善きサマリア人の業が伴っていないような福音宣教は、福音宣教と は言えないということでしょう。

・この「助ける」という言葉は、娘が悪霊にひどく苦しめられているカナンの女が、イエスの前にひれ伏 して、「主よ、どうかお助けください」と言ったという言葉と同じです。また、同じ霊にとりつかれて た子どもを持つ「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と言った父親が、最初にイエスに願 って言った言葉が、「・・・おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」です。この「助 ける」という言葉とも同じです。

・これらのことから、「助ける」ということは、いろいろな痛み、苦しみを持つ人々の「悲鳴を聞いて駆 け寄る」ことであるということが分かります。

・ですから、このように言うことができるでしょう。「この世界で周辺にいる人々は、教会では中心にいます。それが、あるべき姿なのです。したがって、教会のメンバーである私たちは、社会の周辺 にいる人々のところへ常に出かけて行くようにと呼びかけられています。家を失った人々、飢えた人々、親のない子どもたち、エイズに感染している人々、情緒不安定の兄弟姉妹、私たちはこれらの人々に、何よりも先に関心を持ち、関わる必要があります。私たちが社会の周辺にいる人々に手を差し伸べることに精根を傾ける時、取るに足りないことから始まる仲違いや、不毛な議論、やる気をなくさせる対立などは影を潜め、少しずつ消えていくものだということを発見するに違いありません。私たちの関心が、私たち自身から離れ、私たちの心を向けるべき人々の方へ移る時、教会は常に新しくされていくでしょう。イエスの祝福は、常に弱い立場の人々を通して私たちのところに届きます」(ヘンリ  ー・ナウエン)。

・ですから、沖縄の人々の痛みを無視して日本基督教団の福音宣教=伝道はありえないのです。