なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

聖霊が降るということは?

聖霊が降るということは、こういうことなのだろうか。そんな体験を今私はしています。

日本基督教団という教会の牧師を私はしていますが、日本基督教団という教会は今全体的にはほとんど すでに終わっている教会のように思えます。すでに終わっているというのは、耐用年数が過ぎてしまっ たということです。

・けれども、それは全体的にであって、中には未来をつぐむ教会の働きをしているところも多くありま  す。日本基督教団という全体の組織からは切り捨てられて、日本基督教団の組織の中には入っていませ んが、「全国性差別問題連絡会議」や「靖国天皇制問題情報センター」は自主的に活動しています。 この二つの働きは確実に未来をつぐむものです。その他にも沖縄との関係を模索し、自らの問題として 「沖縄から基地撤去を求め、合同のとらえなおしを推進する連絡会」のような働きもそうです。身体や 精神に障がいを負う人たちと共に生きようと努力している様々な運動もそうですし、高齢者の介護への 取り組みもそうです。また、日雇い労働者(派遣・契約労働者も含む)や野宿者、外国人労働者の命と 生活を守るための働きもそうです。この世で小さくされている人々との関わりを大切にして宣教を考え 実践している教会・信徒・教職は、決してキリスト教としても耐用年数は過ぎていません。その他人権 や平和や環境の問題に取り組んでいる運動も、同じように未来をつむいでいくでしょう。

・しかし、信条や教義にこりかたまっている教会は、カルト的な集団としては生きのびるでしょうが、未 来を切り開く教会とはなり得ないでしょう。

・教会が教会であり得るのは、教会が置かれた状況の中で、神を神とすること、己の如く隣人を愛するこ とに忠実な教会だけだからです。

・私が今、聖霊が降るというのはこういう体験かと思える体験をしているのは、教会の未来が見えるよう に思えるからです。私は今67歳です。もうすぐ68歳です。この年になってと思いますが、沢山の経験を 積んでこの年になったから見えてきたとも言えるでしょう。

・これを、聖霊が降るということであるとすれば、私は何をしなけれればならないのか、今しきりに祈り つつ考えているところです。