なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

終わりから生きる

 以下は、紅葉坂教会の教会だより、「牧師室から」2011年1月号に書いたもので、「福音と世界」2011年5月号随想メッセージの一部に再録しました。このブログにも入れさせてもらいます。今日は木曜日です。これから船越教会に行きます。ここ鶴巻には日曜日夜に帰ってきます。それまではブログを更新できません。大分長い間このブログを休みましたが、これからは長休みをしないで、書いていきたいと思っています。では。
 
 「終わりから生きる」
 昨年の暮れから新年にかけて三つの葬儀がありました。その内の二つは洗礼を受けていない方で、ご家族の希望により私が司式をしてキリスト教式で葬儀を行いました。召された3人の方は80歳前後の高齢の方でした。しかし、よくよく考えてみれば、私も現在69歳ですから80歳まで生きられたとしても後10年です。今回帰天された3人の方々とは、それほど年齢的には離れていないことに改めて気づかされました。そういう自分の年齢もあるのでしょうか、今回特に「終わり」ということを強く意識させられました。キリスト教では終わりに関する事柄は終末論と言われます。人間は死んだらどうなるのかという素朴な問いは、一度は誰もが抱くのではないでしょうか。そして仏教の地獄絵や浄土の世界に心動かされた体験のある人も多いでしょう。宗教的な終わりのイメージではなく、「千の風」のように死者との交感のイメージもあります。或いは幼い子供を遺して帰天した父や母について、「お空の星になって、・・・ちゃんをいつも見守っていてくれるのよ」と幼子に語る場合もあるでしょう。実態としての死は、「死ねは死にきり。自然は水際立つ。」(高村光太郎)によく言い表されていると思います。けれども、いろいろな死後の物語があるのも私たち人間の豊かさの現れではないかと思います。キリスト教の終末論には、そのような死後の物語というだけではなく、「終わりから生きる」という側面もあります。ヨハネ黙示録211-7節の「神と人、人と人とが叫びや痛みから解放され一つの家に平和のうちに宿る」やイザヤ書116-9節の「狼は小羊と共に宿り、・・・」という神の正義と真実が支配する神の国の完成(終わり、目標)から現在を生きるということです。信仰者には天国(神の国)に行くというイメージの方が強いかもしれませんが、「終わりから生きる」信仰を忘れてはならないと思います。