なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

終わりの始まり

 以下の文章は、紅葉坂教会の教会だよりに書いたものです。また、この文章は、「福音と世界」の私の文章の中にも転用しました。16年間の紅葉坂教会牧師としての働きを終えるにあたり、自分の思いを述べたものです。このブログにも再録しておきます。
 なお、このブログをはじめたのは、2006年の5月ごりだったと思いますが、中高生のいろいろな問いに答えるためでした。これからは、初心に戻って、若い方々に限らず、生きていく中で出会ういろいろな問いや悩みへの私なりの応答も記していきたいと思っています。
 
 この3月が終わりますと、私は牧師になって42年になります。東京神学大学(以下東神大)を出て、最初の教会(足立梅田)に赴任したのが、19694月でした。私が27歳の時で妻と結婚して3年目でした。1970年が大阪万博であり、当時万博キリスト教館出展をめぐって日本基督教団(以下教団)では大変な論争が起きていて、1967イースターに教団議長鈴木正久さんの名で出された「戦責告白」をめぐる論争と共に教団を二分化するほどのものでした。戦責告白、万博問題、そして東神大問題、教師検定問題が70年前後に立て続きに起きました。そこで私たちはこれらの問題を教団の70年問題と呼ぶようになりました。それ以後40年の時が流れています。前山北宣久教団議長はこの間の40年を自らの総括で「荒野の40年」と言って否定的に評価しました。実は今起きています私の「免職問題」の底流には、この教団の40年をどう評価するかということで、二分化している教団の現実が反映されていることを見失ってはなりません。この二分化には、教会とは何かという根本的な問題が絡んでいます。
戦責告白で言えば、教団の戦争協力の問題です。戦責告白は、そもそも戦時下に教団がアジアの諸教会に向って日本の侵略戦争を肯定しその協力を呼びかけた「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書簡」(194410月)を取り消す意味がありました。万博問題は、1960年代後半のベトナム特需で経済的に力をつけた日本の企業がアジアへの経済侵略の足がかりのために開催した大阪万博に無批判に教団が参加することを問題にしました。批判の側にあったのは、大阪万博に憩いの場を提供してそれを伝道の機会にするというキリスト教館出展の意図は、質的にかつての教団の戦争協力と変わらないのではないかとい問題意識です。東神大問題は、東神大の機動隊導入による国家(権力)と教会の問題です。教師検定問題は、直接的には教師検定という教団の制度の問題ですが、その背景には教団成立時の二重教職制(正教師と補教師)の問題がありました。教団は成立時に文部省から要請された教会主管者である教師の数が足りずに、それまでなかった補教師をつくり数合わせをしたのです。
従って、教団の70年問題は、1941年の教団成立時に内包していた、教会は国家の補完物でよいのか、神のみを神とする信仰は神でない国家を神と等しいものとして受け容れてはならないのではないか、という問題が改めて露呈して起きた、教団にとって起こるべくして起きた問題でした。私はこの問題にどう道をつけて行くかという課題をずっと背負って牧師の仕事を続けてきました。それは今でも変わりません。しかし、私を聖餐のことで戒規免職処分にした現在の教団の大勢は、山北さんの「荒野の40年」を支持し、教団成立の問題には口を閉ざして語ろうとはしません。私は聖餐の問題が起きた当初から、教団の教会は戦時下に行っていた聖餐と現在行っている聖餐との連続性をどう考えるのかという問題を避けることはできないと言い続けています。戦争協力の中で行われた聖餐は信徒を戦争協力に駆り立てる機能を果たしたに違いないと思われるからです。説教も聖餐も神のみを神とする教会の信仰に忠実であるかどうか、どんな歴史状況の中でも説教を語り聖餐を執行する者はそのことが問われるのではないかと、私は思います。
この3月末をもって私は紅葉坂教会の牧師を退任しますが、紅葉坂教会が誰にでも、特に「小さくされた者」に開かれた教会であると共に、教会が拠って立つイエス・キリストの福音という土台にしっかりと立ち続ける教会であることを祈り願うものです。