なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信№4

    424日(日)のイースター礼拝には17名の礼拝出席者がありました。船越教会にかかわりのある方々にイースター礼拝の案内を出したこともありますが、4月の日曜日4回の礼拝の中では特に多くの人が集まりました。ちょうどその日の礼拝後に教会総会が開催され、2010年度の教務報告がありました。1年間の礼拝出席の平均が5.75名でした。礼拝は出席者の数の問題ではありませんが、15名前後の人数がいますと、ほっとした気持ちになるから不思議です。やはりどこかでできるだけ多くの方々と礼拝を共にしたいという願いがあるのでしょうか。
    教会総会では、新しい年度計画と体制が決まりました。週報にも報告しましたが、4人の新しい役員が決まりました。今年度の総会を構成する現住陪餐会員は、転入会が一人あって16名でした。総会には11名の出席がありました。この1年間はこれまでの活動の延長継続をこころがけ、同時にこの1年を通して今後の船越教会の活動の在り方を模索していきたいと願っています。
    船越教会には「船越教会平和センター宣言」があります。『私たちは戦争責任に基づき飢餓、地球破壊、差別、軍事力、核等のあらゆる抑圧から解放された自由、人権、世界平和の実現を求めつつ、戦う民衆として前進することをここに宣言します』(日本キリスト教団船越教会会員一同)という宣言です。
    イースターの礼拝では、最近ある方から受けた質問「死とどう向かい合うか」から話し始めました。その方は75歳の方で、自分の課題として死の問題があるというのです。仏教では生老病死という人間の現実(悩み)をどう乗り越えるかということで、悟りの世界を求めるのでしょう。それは人間が生まれて死ぬという誕生から死までの人間の自然をどう受けとめるかということなのかもしれません。しかし、「生から死へ」という道だけが人間の道なのでしょうか。聖書では、「死から命へ」という復活の命の道が語られているように思います。たとえば、パウロはローマの信徒への手紙6章で、バプテスマ(洗礼)について述べていますが、そこではバプテスマを受けるということは、キリストとともに死んで、キリストとともに神に生きることだと言っています(ローマ6:111節参照)。キリストと共に死んだのは古い自己です。それは自己中心性にある自己で、自分のことしか考えない自己です。そのような自己に死に、キリストとともに神に対して生きる自己に生まれ変わったというのです。キリストとともに神に生きる自己は、自分のことよりも神のみ心の成就を願い、己のごとく隣人を大切にする自己です。キリストと共にそのような新しい自己を生きる人は、死と向かい合ってどう生きるかということよりも、今ここで、祈りつつ、自分ができることをなしつつ、神を待ち望み、神のみ心の実現成就としての神の国の完成に希望を託していくのではないでしょうか。
私は以前鎌倉の稲村ケ崎にある軽費老人ホーム2カ月に一回聖書のお話をしにいっていました。その集会にでてくるお年寄りの一人にKさんという女性の方がいました。80代後半で、数年間に召されました。聖書のお話をした後、特に話したくない人はパスしてかまわないということで、懇談の時を持ち、参加者の近況や抱負や疑問を話してもらっていました。Kさんは今の自分の願いは「世界が平和になることです」と繰り返し言われました。また、名古屋時代にやはりKさんという寝たきりのお年寄りで、お見舞いにいらっしゃった方が逆に励まされて帰ってくるという方がいました。寝たきりですが、感謝ですとにっこり言われるその笑顔が素晴らしいというのです。その方は若い時から恵まれた方だったかもしれませんが、全身自分では体を動かせず寝たきりのまま死を待つ状態にあるわけです。どんなに年を重ねても、一瞬一瞬をどう生きるかではないでしょうか。「生きて死ぬ道」から「死んで生きる道」を、私たちも歩むことができればと願わずにはおれません。(船越通信№4 2011年5月1日)