なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

転居通知

 4月から鶴巻と船越に、週の前半と後半という形で二重生活をしていますが、やっとそれなりに落ち着いてきました。この際今まで交友のあった方々や在任した教会で交わりを与えられ、私たちのことを覚えてくださっている方々には、年賀状もクリスマス・カードも失礼していますので、転居通知くらいは出さなければと思って出しています。でも、まだ出し切れてはいません。紅葉坂教会の牧師館から2箇所(鶴巻と船越教会)への引越しをしましたので、もらっていた葉書や手紙の住所を控えておらす、その葉書や手紙が荷物のどこに入ったのか、なかなか出てこなかったりしています。つい数日前にも、荷物の中から葉書が見つかり、転居通知を出した方もありました。
 さて、私の転居通知に対して、中には丁寧なお手紙をくださったり、電話をかけてくれる方もあったりして、恐縮しています。ある方のお手紙の中に、私の免職に触れて、このように書いてくれた方がありました。
 「それだけに今回の先生のお立場は、先生個人の立場というより紅葉坂教会としての立場として私には受け止められていましたが、・・・・・・。然し本来教会は牧師のものでは無く、牧師はその教会に仕えるものでしょうから、今回の日本基督教団の姿勢は根本的に間違っていますよね。問うなら紅葉坂教会に問われるべきでしょう。でなければ先生のあり方より日本基督教団のあり方が問われるべきと思います。当たり前の事ですが。それが問われない事こそ問題でしょう。・・・・・」
 当たり前のことが当たり前でないということは、私の免職問題だけではなく、しばしば私たちが経験することではないでしょうか。「原発は危険だから、電気の供給を原発に頼らない方が賢明ですよ」ということは、これも当たり前だと思うのですが、今までは当たり前ではありませんでした。今回浜岡原発を停止することに中部電力も決めましたが、これは賢明な判断だと思います。すると、テレビなどで御用学者が出てきて、電気を使うピークの夏場には供給が足らなくなるのではとか、企業主が出てきて、生産が落ちないようにとか、意見を言っています。メディアはむしろ、原発がすべてなくなっても、安心して生活できる、自然と動物や人間に優しい未来の社会をどう創り出すことができるのかということについて、創意工夫に満ちた意見を私たちに伝えてもらいたいと思うのです。そういうメディアを作るためには、原発の問題をきちっと認識し、みんなの命と暮らしを守るのだという市民の側が政治経済活動の主人公にならなければ難しいでしょう。
「自分でやらなければ、誰かがではダメだ」。これも当たり前のことですが、なかなか当たり前にならないところが、なかなか難しいところです。
まだしばらくは私も免職問題を負っていかなければならないでしょう。