なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信№5

船越通信№5   2011年5月8日     北村慈郎
 
    ゴールデン・ウィークの間みなさまはどう過ごされました。私は4日の日に久しぶりに山歩きをしました。今住んでいます秦野は丹沢が近く、山登りの人でにぎわいます。鶴巻温泉駅(以下駅はすべて小田急小田原線)近くには秦野市々営の弘法の里湯があり、山歩きした人たちが帰りがけに、汗を流していく温泉です。祝日は一杯の人です。大分前に秦野駅から鶴巻温泉駅まで、権現山と弘法山を歩くコースを楽しんだことがありました。4キロ半くらいの距離でゆっくり歩いて2時間半くらいのところです。山歩きとは言えないくらいの楽なコースです。4日の日は鶴巻温泉駅から権現山まで歩き、少し戻って東海大学前駅に出る道で下り、町内会館前というバス停から駅までバスに乗りました。マンションを9時半ごろ出て、東海大学前駅に着いたのが12時半ぐらいでした。駅の近くにある日帰り温泉にいき、昼食をとり、温泉に入ろうとしたら、若いS牧師が一人でその温泉にやってきました。彼が入った後に私も入って、湯船にいて、サウナから出てきた彼に合図をしましたら、彼はびっくりしていました。一緒に温泉を楽しんで、彼の車で私のマンションにいき、しばらく歓談して別れました。彼は6日から東北の被災地に神奈川教区の他の3人と一緒に行くことになっていて、彼の車の中にはいろいろな物資が積まれており、その中には子供のおもちゃもありました。私のブログでこの温泉を知り、買い出しの途中寄ったそうです。この4人の現地派遣によって、神奈川教区としてもどのような形で支援したらよいのか模索していくことになると思います。
    被災者への支援の動きとしては、被災地である奥羽、東北、関東教区以外では、1995117日に起こった兵庫県南部大地震の経験がある兵庫教区の兵庫南部大地震ボランティアセンターと兵庫教区被災者生活支援・長田センターなどが、地に足のついた活動をしているように思われます。兵庫南部大地震ボランティアセンター発行の「じしんなんかにまけないぞ!こうほう」が教会に送られてきています。ファイルにしておきましたので、目を通していただければ幸いです。教団は諸外国の教会からの援助を目当てにして、中越地震以降(能登も)被災者への救援を抜きにして教会の再建しか言わなかったのに、今回は「地域に仕える教会の再建」ということで、プロジェクトを立ち上げたようです。
    51日の説教はマルコ福音書11~8節をテキストに、「道備え」という題で話しました。まず表題の「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」について。元来のマルコには「神の子」がなかったという説を紹介し(田川健三)、「イエス・キリストの福音」とマルコが言う時、当時ローマ皇帝の誕生、成年、即位、勅令などが福音と言われていたことから、ローマ皇帝のような存在ではなくという排他的な意味を込めて、「イエス・キリスト」が福音であると、マルコは言っているのです。この福音はヘレニズムの背景では「よき知らせ」ですが、ヘブライ的な背景からは、それは神の行動の介入を意味したこと。したがって、イエス・キリストの福音とは、イエスを通して私たちの只中で神が行動していることなのです。私たち人間は肉体的な束縛に加え社会的な存在としてその時代の社会の抑圧構造を無意識に身体化してしまっている者として社会的な束縛も受けています。イエス・キリストの福音は、そのような二重の束縛に苦しむ私たち(そのことを自覚していない場合が多いが)に亀裂をもたらし、肉体的・社会的束縛を突き破って、私たちの魂を揺さぶり、新しい目覚めを呼び起こすのです。ですから、そのイエス・キリストの福音を受け入れるには、私たちの側ではメタノイア(悔い改め、方向転換、メタノイアを反対から読むとアイノタメ(愛のため)になる)が必要です。バプテスマのヨハネはそのような悔い改めを人々に求め、イエスにおける神の到来と神の行動の介入への道備えをしたのです。