なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信№16

船越通信№16   2011年7月24日     
 
  718日(月・祝)には、教区社会委員会主催の「東日本大震災被災者支援集会」が湘北地区の翠ヶ丘教会で行われました。この集会は、320日頃毎年行われています教区社会委員会主催の「平和フェスタ」が、今年は直前の311日に起きた東日本大震災で中止したため、それに代わる集会として企画されました。社会委員会傘下の小委員会ではありませんが、寿地区活動委員会も毎年「平和フェスタ」に参加していますので、この支援集会にも参加しました。私も寿地区活動委員会に関わっている関係で平和フェスタには毎年参加していますので、今回の支援集会にも参加しました。開会礼拝の後、5月に現地に行ってきたAさんから映像による報告がありました。続いて最近個人的に現地に行って来たBさんからの報告もありました。Bさんは、95年の阪神・淡路大震災の時には神戸の教会で大震災を経験した方です。今回の東日本大震災が起こった時、Bさんの中にはフラッシュバックがあったそうです。Bさんは東日本大震災後に支援の働きをするだけではなく、どうしても現地を訪ねたいという思いを持たれたようで、ご自分で捻出したカンパを携えご夫妻でご自分の車を運転して行かれたそうです。その熱意には敬服いたします。いくつかの教会を訪ね、仙台地区の牧師さんたちを励まし、そして、被災した約220人の人たちが、全員その村に残り共同の生活をしながら村の再建に立ちあがっている南三陸町中山集落を探して、いろいろお話を聞いてこられました。Bさんがこの村を訪ねたのは、大震災を経験して村がほとんど壊滅してしまったのに、全員がその村に残って再建に取り組んでいこうとしていることに、感動すると共に、その力はどこから出てくるのかということを突き止めたかったのではないかと思います。阪神・淡路大震災後の復興では、被災した市民の手での地域の再建というのではなく、行政と経済界の主導による復興を許してしまったという悔いの思いがBさんにはあったからだと思います。Bさんは「民力」という言葉で、その村の人々のエネルギーを言い表しました。おそらくこの村の空気には、まだ村落共同体のエートスが相当残存しているのではないかと推察します。個よりも共同体が優位に位置するところがまだあるのでしょう。「民力」とは、この村が共同体としての強固な一体性を保持しつつ現実の困難にぶつかっていくときに、その強固な団結力によって困難を乗り越えてゆく力でしょう。東日本大震災の被災地の中から、福島の原発事故による避難を強いられている所は難しいと思われますが、地震津波による被災地の中には、上記のような民力を発揮して、下からの地域の再建をめざし実現していく所がいくつか出てくるかもしれません。もちろん国家や自治体の支援を受けながらでしょが、主体は被災者による再建です。もしこのことが実現すれば、日本の未来に対する新しいチャレンジになるでしょう。私は、個の自由の上に個の主体的な選択による共同性が力となるような人間の連帯が未来を拓いていくように思っています。私は、教会もそのような人間集団として今後日本の社会の中でイエスの福音を証言していくようになることを願い、そのために力を注ぎたいと思っています。
  被災者支援集会では午後自然エネルギーを推進している方の講演がありました。この講演では、現在の日本でも政策転換によっては自然エネルギー主体のエネルギー供給が十分可能であるという認識を与えられました。
  717日の礼拝説教ではマルコ福音書37-19節からメッセージを聞きました。この部分は、「病気に悩む人たちは皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せた」というところと、十二弟子の選任の記事です。イエスは「医者を必要としているのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2:17)と言われました。この言葉は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)というイエスの言葉に通底しています。なかなか他者の苦しみや重荷を自らの肩に背負って生きるという人はいません。自分の子どもに対して母や父のように無償の愛を与える人もいますが、自分の子どもにさえ責任を果たさずに放置する親もいます。自分の子にはできても、他の人の子には同じようには無償の愛を注ぐことは難しいでしょう。イエスは進んで病者や苦しむ人の重荷を負われました。私は、そのようなイエスの生き様にイエスの無償の愛を見るだけでなく、イエスが病者に人間としての本質的な姿、本来の人間の姿を見ていたように思います。「病気」と訳された言葉は「鞭」とも訳されます。鞭は神の罰とも考えられますが、おごり高ぶっている者が鞭打たれ、へりくだらされ、他者へと己を開かずには生きていけない者とされるという意味合いもあるように思います。病者は他者を必要としているのです。他者なくして生き得ないのです。これが人間の本来性ではないかと思います。「罪人」も赦されなければ生きていけない人です。他者を必要とし、他者を求めています。イエスは偽善者のごとく、他者の弱みにつけ込んで施しをし、自分の義を人に見せる人間ではありません。イエスは他者を最も強く求めている人と共に生きるために来たのです。「病者」の中に他者の支えを切実に求めている人間、罪を犯して赦しを切実に求めている人間、そのような者の友となって交わることにより、人間が神のもとにあって共に生きることによって、神に栄光を帰する道を、私たちに示されたのではないでしょうか。弟子たちは、そのようなイエスのそばにいて、イエスの業を引き継ぐために招かれたのです。