なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

牧師就任式その後

 ふと昔の書いた文書を検索していましたら、数年前に天上の人となった藤村靖一先生について書いたものがありました。先日(710日)教団の承認を受けたわけではありませんが、船越教会独自で行った船越教会の牧師就任式のとき、S先生が祝辞を述べてくださり、私のことを浅野順一先生の孫弟子のように言ってくださいました。S先生も私が最初に赴任した足立梅田教会で私を招いてくださった藤村靖一先生も浅野順一先生の薫陶を直接受けられた方々です。実は就任式の司式をしてくださったK牧師もS先生の数年先輩でやはり浅野順一先生のお弟子さん筋に当たります。考えてみれば、不思議なめぐり合わせです。藤村靖一先生は浅野順一先生が最も信頼された方のように、私には思われました。足立梅田教会は設立当初から、藤村靖一先生が補教師のままでいらっしゃいましたの、礼典執行は浅野順一先生にクリスマスの頃来ていただいて行っていました。私も足立梅田教会在任中の5年間は教師検定試験受験拒否をしていましたので、足立梅田教会創立以来の伝統を継承して、年1回浅野順一先生に来ていただいて礼典を執行していました。私の3人の子どもたちはみな幼児洗礼を浅野順一先生から受けています。浅野順一先生は、聖餐式の時に洗礼を受けていない人に対して次のように言われました。「洗礼を受けていなくても聖餐に与かりたい人は与かってください。もし神さまのお叱りがあれば、私がそのお叱りを受けます。そして、どうか洗礼を受けて信仰を公に言い表してイエスさまに従ってください」と。S先生が私のことを浅野順一先生の孫弟子のようにいってくださったことを思い出しながら、以下の短文をブログに載せることにしました。 
 
「牧師の中でボクが一番尊敬する藤村先生」      
 
藤村靖一先生との出会いは、ボクが東京神学大学3年生の時である。1965年になる。神学校の同級生の友人と二人で、夏期伝道実習を足立梅田教会にお願いしに先生のところに伺ったのがはじめてである。ボクたちはその頃本木町にあった本木隣保館で、週一回東京神学大学の寮から通ってきて、廃品回収をしながら仕切り屋さんの長屋でかろうじて生きのびていた方々(当時「バタヤさん」と言われていた)の集会をしていた。夏休みを利用してその方々の仕事を一緒にさせてもらおうと思い、夏期伝道実習ということで藤村先生にお願いしたのである。藤村先生はボクたちの話を聞いて、快く引き受けてくださった。そしてその夏足立梅田教会の信徒の家の一室をお借りして、そこに二人で泊り込み、朝早く仕切り屋さんから借りた大八車を引いて、西新井橋、尾竹橋を通って町屋近辺で、都の廃品回収車が回ってくる前のゴミ集配所から金目になるものを集めてくる「バタヤさん」の仕事を手伝ったのである。それがきっかけとなって、その後先生は青山学院の方で学校の教師と教会の牧師の兼任が出来なくなったということで、神学校を出たらボクに足立梅田教会の牧師になってもらえないかという話をしてくださった。ボクはそれを受けることを決断し、19684月から足立梅田教会の礼拝に出席するようになった。その頃ボクは既に結婚しており、東横線の大倉山に住んでいた。そこから1年間は妻と一緒に足立梅田教会の礼拝に通ったのである。19694月から、居を関原のアパートに移し、足立梅田教会の主任担任教師として働くようになった。19743月まで先生と一緒に仕事をさせていただいた。
 ボクは自分の人生の中で出会った牧師の中で藤村静一先生を一番尊敬している。他にも尊敬でき、またいろいろ教えられる先輩の牧師の方々はいるが、先生は一味違っているように思う。それは何かを誤解を恐れずに言えば、先生はキリスト教や教会よりも目の前の人間を大切にされるということである。 ボクはこの3月が終わると牧師になって40年になる。この40年間キリスト教や教会を絶対化して生身の人間を抑圧する過ちに陥る危険から比較的自由でいられたのは、ひとえに藤村先生との出会いによるところ大である。その意味で、先生には本当に感謝している。
 死後の世界があって、また先生とお会いすることができたら、人間について、聖書や教会についてゆっくり語り合いたいと思っている。