なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(23)

船越通信№23   2011年9月18日      
  95()から17()まで教会から夏期休暇をいただいて、少しのんびりと過ごすことができました。ありがとうございました。しかし、今年はこの時期の夏期休暇が8月役員会で決まりましたので、その段階で既に予定が入っていた集会があり、2週間完全に教会の仕事から離れることはできませんでした。来年からは早めに夏期休暇を決めていただいて、その間は集会等の予定を入れないで、完全休暇にしたいと思います。
  96日には神奈川教区の常置委員会がありました。今回は常置委員会の後1930からセクシュアル・ハラスメント学習会がありました。講師は神戸の頌栄保育学院のT牧師で、「米国教会のセクシュアル・ハラスメント対策」についてです。T牧師は米国メソジスト教会での牧会経験から講演してくださいました。その一つ一つのお話は、余りにも日本の教会の現状からしますと、進んでいるものばかりでした。T牧師が米国で働いた教会には3人の牧師がいて、主任牧師ももう一人の牧師も女性で、日本における教団総会議長も女性がなっているということでした。その女性の主任牧師はメソジスト教会のセクシュアル・ハラスメント対策委員会の委員長をしておられ、これまで彼女によって5人の牧師がセクシュアル・ハラスメントによって牧師を辞めさせられたというのです。それだけでも、日本基督教団と比べますと、大変な違いです。日本基督教団では熊本白川教会牧師のセクハラ事件が、被害者の女性によって司法の場に訴えられ、牧師の有罪が確定し、損害賠償も支払ったにもかかわらず、今でもその牧師は教会の牧師としてとどまり続けています。教会員からも九州教区からも日本基督教団教師委員会に戒規にかけるようにという要望が出ているにも拘わらず、教団教師委員会は、私の場合にはすぐに免職にしましたが、以前勧告をしただけで戒規にかけようとはしません。これだけでも日本基督教団と米国メソジスト教会の違いが明白です。メソジスト教会全体がセクシュアル・ハラスメントを無くそうとする強い姿勢をもっていて、10年単位くらいでアンケートをとり、その間どのくらい対策が進展しているかも見ながら、取り組んでいるようです。女性教職が人数の上でも多いということもあるでしょうが、教会が人権意識に敏感であるということもあるのではないかと思いました。日本の場合は、企業や自治体のような所の方が、セクシュアル・ハラスメントによる実害が大きいということもあるのでしょうか、対策は進んでいるように思えます。教会は遅れています。これもおかしなことで、本来のイエスの福音からすれば、教会は人権侵害に敏感であるはずなのですが、現実の日本の教会は多くの場合そうではありません。ここにも護教による教会擁護の力学が働いているように思えてなりません。日本の教会が性差による差別や人権侵害から解放されて、人が他者と対等な関係を生きるということにおいても、日本の社会に発信していけるようになりたいと願います。
  911(日)には、礼拝は秦野西教会に出席しました。その日は夕方から免職問題で私を支援してくれる東京の支援会から出していただいた、現在準備中の裁判の支援をしてくださる世話人の方4名と神奈川からは私を含めて3名とで打ち合わせを鶴巻の私の自宅でしました。特に東京の方には、裁判が始まりましたら、東京地裁に提訴することになると思いますので、そのためには東京在住の方々に傍聴の支援をお願いしなければなりません。その関係で、東京の世話人の方にご協力をお願いしました。
  916日には寿地区活動委員会があり、出席しました。9月になってなか伝道所、カラバオの会、寿地区センターがそれぞれ借りている金岡ビルの部屋を移動して、なか伝道所と寿地区センターは、それまでは階が違う二つの部屋を借りていたのですが、今回なか伝道所は2階に二部屋続きに、寿地区センターも3階に二部屋続きに部屋を確保できました。そのための引越しが行われましたが、私は手伝うことができませんでした。委員会は移動した後の3階旧なか伝道所の部屋で快適に行うことができました。寿地区センターでは本年4月から非常勤職員を置いています。そのために本年から経費が昨年に比べますと100万円ほど多くなっていますので、献金をよろしくお願い致します。
  94日のメッセージは「なぜ怖がるのか」と題して、マルコ福音書435-41節からとりつぎました。このマルコの個所は、ガリラヤ湖で嵐のあったイエスと弟子たちが乗った船の中でのイエスと弟子たちとの問答の様子が語られているところです。イエスは舳の方で、「まくらして、眠っておられた」とあります。弟子たちは嵐に出会って揺れ動く船の中で怖くなり、イエスを起こして、「先生わたしたちが溺れ死ん(滅ん)でも、おかまいにならないのですか」と言ったというのです。E.シュヴァイツアーは、「弟子たちのなじるような問いかけは、詩編における神の沈黙に絶望する祈祷者の困窮に似たものを感じさせる」と言っています。人は弟子たちと同じように、病苦の中で、死との直面において、民族的な苦難の中で、宣教の困難さの中で、愛そうとして愛しえない苦しみの中で、「私達が滅んでもかまわないのですか」と叫ぶのです。しかし、そのように叫ぶ弟子たちや私達は、イエスがその同じ船の中にいたもうことを、今私達が味わっている困窮を私達と同じように受けておられるイエスがいたもうことを、本当に知っているのでしょうか。もし弟子たちが溺れ死ぬとすれば、イエスも同じように溺れ死ぬのです。自分で自分の生を配慮しようとする思いに囚われている限り、私達の味わう困窮の只中にイエスが私達と一緒にいることを見失ってしまうのではないでしょうか。イエスは、スーパーマン的な救済者ではありません。私達が今置かれている現実をイエスと共に担うときに、既にその私達の現実が十字架と復活の主であるイエスによって担われているのです。これこそが私達の希望です。