なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(29)

 以下の黙想と祈りの夕べ通信に書いたことは、「生き抜く」という言葉への私の親近感です。今もそれは変わりません。 
 
黙想と祈りの夕べ
   (通信 29 2000・ 4・16発行)
 
 前回の「通信」の最後に、穂積純の「私たちが苦しみを生き抜いて来た人間であることを誇りにする時がきた」という言葉を書きました。私は、この言葉の中の「生き抜く」ということに、以前からこだわっています。私たちの日常的な生の営みについて、いろいろな言い方がなされます。「暮らす」「生活する」「生きる」など。けれども、私は「生き抜く」という言い方の中に、自分にはぴったりする何かがあるように感じてきました。人によっては「生き抜く」という言葉には、人の側の奢りが感じられて、余り好ましくないと思われる方もあるに違いありません。毎日を生きるということは、草木が花をつけて時期が来ると枯れていくように、自然の営みと同じで、人間の意志や願望というものが日々の生活を動かすのはごくわずかであって、そのようなものは取るに足りないのだという考えです。確かにある程度長くこの世に生きて来た者は、自分がここまで生きてこれたということの中に、「導き」としか言いようのない自分の思いや計画を超えた大きな力を感じているものです。そういう見方からすると、「生き抜く」という言い回しには、自分が勝ちすぎているように感じられるでしょう。それでも、私が「生き抜く」という言い回しにこだわるのは、すべての人の生には「生き抜く」としか言いようのない過渡性という面があるように思えるからです。
 穂積純は「苦しみを生き抜いて来た」と言います。この人の場合には、生き抜くエネルギ-を必要とする程の大きな苦しみを背負って来たということでしょう。そしてその苦しみから解放されるために生き抜いてきたのでしょう。けれども、人間が日常的に背負っているのは、苦しみばかりではないと思うのです。安定や平和も、人が背負っているものと言えないでしょうか。「背負う」という言葉には、ある種の強制があるように思いますので、その人にとって望ましい状態としての安定や平和を背負うというのは、言葉の矛盾かも知れません。けれども、自分に与えられた安定や平和は、ごく限られたものかも知れません。もしかしたら、それを享受し、そこに安住することによって、自分の安定や平和のために、どこかで代償を払っている人たちがいて、そのためにそのような人たちが苦しんでいるかも知れません。とすれば、安定と平和という自分の現状に安住することが、他者に対する抑圧になりかねません。そういう他者の抑圧となっている自分の安定と平和ならば、心ある人ならば、そこから脱出して、他者を抑圧しないような生き方を求めてゆくでしょう。そのような場合にも、真実を求めて「生き抜く」と言えるのではないでしょうか。
 私たちはどんな未来を望み見るのでしょうか。それこそシャロ-ム(平和)という終末論的未来を望むとすれば、シャロ-ムは争いがないだけでなく、一人一人が満ち足りたさま(平和)を言います。けれども、現在はとてもシャロ-ムとは言えません。とすれば、あるべき未来としてのシャロ-ムに現在を繋ぐ生き方が、私たちに求められていると言えるでしょう。パウロ流に言えば、日々死んで、日々新たに生きるということでしょうか。そのような生の言い回しとして「生き抜く」という言葉が、私には適切なように思えてならないのです。
 前回の「黙想と祈りの夕べ」の「分かち合い」では、「生き抜く」という言い回しについて、上記のような感話を、私から述べさせてもらいました。
 それぞれに現在を生き抜く力が与えられますように。