なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(33)

 父のこと
以下「九年度」とは1934年、昭和9年度ということになります。この頃父は最初の妻との間に二人の女の子を与えられていました。私には姉が3人、兄が1人、妹が1人いましたが、今は2番目の姉と私だけになってしまいました。上の姉二人が父の最初の妻から生まれました。後の4人はわたしの母から生まれました。私のすぐ上の姉は7歳くらいで、戦後すぐの食糧難の時代に疫痢かなんかで急逝しました。私にはこの姉の死についての記憶は全くありません。私が青年時代になって姉たちからこの時父親の髪の毛が真っ白になったという話を聞いたことがあります。幼くして亡くなった子供が家族の中で、特に父や母の中では神話化されるということもあると思われますが、この亡くなった「はるみちゃん」という姉を、父や母がよくいい子だったと言っていたのを覚えています。
 1934年、昭和9年という時代状況は、日本が特に中国への侵略を広げていっている時代です。太平洋戦争への突入が1941年、昭和16128日ですから、その7年前ということになります(ちなみに私は1941124日生まれです)。共産主義者天皇制を批判する宗教教団への弾圧がきびしくなっていた時だと思われます。同時にアジアへの天皇制国家の侵略の誤りを認識できないまま、国家の情報操作を信じ、民衆も侵略戦争に加担していった時期ではないかと思います。
 父は兄に勧められて川柳を始めたようです。この頃父は32歳ですから、まだ川柳をはじめて10年も経っていなかったのではないでしょうか。この頃の句は、思想的なものではなく感覚的なものが多いようです。もしかしたら、この頃父は最初の妻を亡くし、二番目の妻との生活だったかも知れません。その方は子供の世話をしないということで、直ぐに別れ、私たちの母が三番目の父の妻になったということです。
 では、「父北村雨垂とその作品」(33)を掲載します。
 
  父北村雨垂とその作品(33)
 
九年度(その1)
 
金色のみかんも正月の灯の眞下
振り上げた槌には音が待ちかまえ
陽光がまとへる黒き裏をみよ
腹でなきながら世間を少しほめ
夢のせてそのまま消えよ形見分け
電(?)する中の樹立の素っ裸
乞うものの姿依然と首を垂れ
友達の姿をかへた敵味方
信念をおさへて明日の糧にふれ
 
泥酔の果が眞理を口走り
 
ビラ撒いた手はチップにも足らぬ糧
こころまちたる夢もなし百ヶ日
風呂加減吾れに佛の姿あり
 
何割か引いて倖せなりとする
 
結局は他人友達一人減り
親しさに馴れた言葉が生んだ悔
良心をなぐさめながら小さい罪
 
石段の白さが月へ威を示す
 
いってらっしゃいと突きだす明日の糧
夢の中だった妻よ子が泣くぞ
その鎖りきればふたりは死ぬでせう
恋愛のほのほなみだの色にでる
辞を低うして面白く世間をみ
みなしごのねがほにうかびけるえくぼ
夢おなじからずひとつの部屋にねて
泣いた日も数へて年をとりました
善人は昨日も今日も腹が減り
モーターの動くに耳も眼も要らず
ひたすらに弱きが女性美だといふ
 
紙屑に似た今日もすて今日もすて
 
一汁一菜へ理屈のあるもよし
不可解のそも始まりが呼吸を吐き
朝な夕なひとすじ(ち”)みちの興もなし
 
花ほどに蝶ほどによき春ならず