なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(34)

7月の末になか伝道所に招かれて「私の『戒規免職』問題とは何か?」という話を礼拝後にしました。その私の話を文章化してくださって、「ことぶき「なか」だより」№147201110に載せてくれました。私の戒規免職問題は、聖餐の問題というのは表面的なことであって、その根底には、教団を自分たちの意のままに動かしたいと考えている福音主義教連合と連合長老会に東京神学大学が加担して教団のヘゲモニーを握ることにあると思っています。なか伝道所では、そのことを1960年代以降の教団の歴史を振り返りながらお話ししました。この私の話と共に、「なかだより」には渡辺英俊さんの「イエスを記念して」(コリントⅠ、11:23-26の聖餐の記事)という使信が掲載されています。その最後の所で、渡辺英俊さんは、このように言っています。
 「迫害時代の教会は、非合法の地下組織として権力に抵抗しなければならなかった時期があって、会員資格を厳しくすることが必要だった…。だから「洗礼」が秘密結社の入団儀礼として重んじられ、聖餐が入団を認められた者に限られ、それが意味を持った時代があった…。
 しかし、ローマ国教になったキリスト教が、帝国支配の一端である戸籍管理に利用され、「洗礼」がその最強の道具に使われた…。そういう歴史的な誤りを省みると、洗礼を聖餐の前に置き、聖餐を受ける資格のように考える「伝統」は、見直すべき時に来ていると思うんですよ。」
 この「ことぶき『なか』だより」№147は、現在の教団体制派の考え方への根本的な批判となっています。是非多くの方に読んでいただきたいと思います。発行元のなか伝道所の住所は、 〒231-0026 横浜市中区寿町3-10-13、金岡ビル203、電話は(045)671-1109です。
 今日は「父北村雨垂とその作品」(34)を掲載します。
 
父北村雨垂とその作品(34)
 
 九年度(続き)
 
正直な涙め他人の気も知らず
コスモスを勞はる人の不倖せ
何事か待つ如し下駄外を向き
畜生の一歩手前で眼を醒し
街へでる道を見送り金がなし
門燈へうつらうつらと家がみえ
ロッコに運ばれ土 街になり
明日は誰かの懐ろの中の金銭
 
所詮陽は落つるを知って嫁ぐのみ
生活の街ただ速きものの音
子を背負って女埃と汗にゐる
うぬぼれた ( ち ) ( え )が戸を閉め鍵をかけ
群衆へ災難何事かを教へ
定命の命の余れば經を聴くもよし
疑問符のままに三度の飯を喰ひ
砂浜に幸あり足の裏をみよ
 
剃刀の下にまどろむ晝がある
 
紙よりも薄い寿命へ飯の煙
積善も不善も鍵の要る世なり
幾らかを握って乞食客となる
何を得るともなく本の数が増へ
可愛いい子に目隠しをして送り
しめきった障子の中の冬と外
親も子も茶碗の縁が缺けてゐる
 
良心の孤立に酒の普遍性
うえじにをしても盗るなと ( のたま )わく
子の頬に母性が忘れたたしなみ