なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(18)

マルコ福音書による説教(18) マルコによる福音書5120
 
・・自然(風や海)を従わせたイエス4:35-41)に続いて、この5章1~20節の「ゲラサ人の癒し」物語は、古代の神話的な世界観に支配されていた人々にとっては、神的な力をもって悪霊を追放するイエスを、恐るべき者として描かれています。
・・ここでのイエスは、「悪霊より強い者」で、(今までも1:21以下3:11以下)。6、7節には、イエスを遠くから見るために駆け寄って平伏する悪霊の態度が記されています。そこで悪霊はイエスに向かって、「いと高き神の子イエスよ…」と、イエスの名を呼ぶことにより、イエスからその力を追い出し、自ら防御しようとしたのですが、その悪霊の叫びも、イエスの前には何一つ効果がありません。逆に、イエスから「何という名前か」と尋ねられ、「レギオン(ロ-マ軍団、6000名の軍勢からなる)」と答えてしまうのです。
・・「悪霊の支配」を「レギオンの支配」(「レギオンを宿していた者」口語訳、「レギオンにつかれた者」田川、15節)と言っているところに、この奇跡物語の担い手たちの感情があらわれていると言われます。小河陽は、「悪霊の支配をレギオンの支配と物語ることで、シリアに駐留するロ-マ軍団レギオン支配下にある自分たちの状況を反映させたかもしれない。土地を去りたくないとの悪霊の願いは(10節)、このロ-マ軍団駐留の事態に対する反発であろうか。この場合には、豚の溺死は、象徴的出来事として、このロ-マ軍団駐留を豚のごとく海に追い落としてやりたいというユダヤ人民衆の攻撃的な願望を密かに満足させたかも知れないし、あるいは現実には諦めざるを得ない隷属の屈辱心のいかほどかのうさ晴らしであったかもしれない。あるいは、豚を汚れた動物として忌み嫌うユダヤ人は、豚の大量の死に宗教的潔癖心を満足させたり、あるいは汚れた豚によって金を稼ぐ異邦人の大損害に小気味よい喜びを抱いたかもしれない」『イエスの言葉』151頁)。
・・これは推測の域に過ぎないが、この奇跡物語が抑圧されていたユダヤの民衆の中で、ドロドロとした彼らの感情が込められて語り伝えられたということは、言ってもよいでしょう。
・・ギオンに支配された男の状態が誇張されて、3-5節に描かれていますが、この男は足かせや鎖でも打ちやぶってしまい、墓場や山をさまようだけでなく、墓地そのものを住居としていたと言われます。ユダヤ人にとって、墓は汚れた場所であり、宗教的にも忌み嫌われていた所です。そのようなレギオンにつかれた男から、レギオンを追い出し、彼を正気にかえす者として、「悪霊より強い者」としてのイエスが、ここで語られているのです。
・・私共は、この物語を読む場合、私共がもっている非神話的な世界像によってここに出てくる神話的表象の陳腐さに躓いてはなりません。むしろ、「神話の世界に生きていた当時のガリラヤ近辺の民衆にとって、そのような神話的表象をもってしか表せなかったような現実」を読み取るべきです。私共は悪霊の存在を信じない。しかし、人間を非人間化してゆくところの力の存在と、そのような力に抵抗できずに飲み込まれてしまう、私共自身の主体性の弱さがあるという事実を無視することは出来ません。ロ-マの支配・搾取・貧困。神話的世界に生きていたイエスの時代の人々は、非人間的な状態におとしめられた人間を「悪霊にとりつかれた者」と考えたのでしょう。さしずめ今の時代で言えば、「悪霊にとりつかれた者」とは、何らかの精神障がい者をいうのかもしれません。
エスは神的な力をもって悪霊を追放しました。レギオンはこの人間から離れて、2000匹の豚に乗り移って、崖から海へなだれをうって駆け下り、海の中でおぼれ死んでしまった(13節)のです。私共は、このような人間の姿の中に、人間を非人間化する力に対して、激しく怒るイエスを読み取ることが出来るのではないでしょうか。
・・8節の「汚れた霊よ、この人から出て行け」は、怒りの言葉です。それは、4:39「(イエスは起き上がって風にしか り、海に向かって)『静まれ、黙れ』というイエスの言葉と内容的には同じ言葉と見てよいでしょう。荒れ狂う海を叱りつけるイエス、人間を支配する悪霊を追放するイエスは、一人の人として、私共と同じように、様々な苦悩や悲惨のただ中に立ち給う方であると同時に、それらが生じる根源としての「死と不法」に対して、激しく怒り、勝利しておられる方でもあるのです。
・・最近、牧師の研修会などで、精神障害者神経症)に対する牧会という問題が取り上げられることがよくあります。それは、牧師が具体的なケ-スと直面して悩むことが多いところから、牧師の精神治療に対する関心が深まって来ているということが、直接的な理由と思われます。
・・実践神学の中でも牧会心理学等の重要性が強調されています。現代社会に生きている私共の中に、ノイロ-ゼや様々な精神的病者が多発しているからでしょう。そういう人に対する治療が追求されることは勿論重要なことです。又牧師がそのような領域から学ぶことも必要なことです。しかし、イエスは精神治療者ではない(そういう側面も兼ね備えていたかも知れないが)ということを見失ってはなりません。人間をそのようなところへ追込むものへ憤りと怒りをイエスは向けたのであり、かつ、そのような支配から人間を自由にしたのです。
・・ギオンにとりつかれていた者が、正気になったとありますが(15節)、それはどういうことでしょうか。何事が起こったのかを見に来た人々は、正気になってすわっている男を見て恐れた(15節)と言われています。そして、この出来事を実際に見た人から一部始終聞かされた時、彼らは「イエスに、この地方から出て行っていただきたいと頼」んだと言われています。何故レギオンを追放したイエスを、人々は自分の町から追放しようとしたのでしょうか。得体の知れぬ異能者に対する恐れと不安をイエスに感じたからでしょうか。そうかも知れません。
・・しかし、私には、この町の人々の恐れ、イエスを拒絶する反応の中に、一つの秩序の中に安住している人間の、その秩序のもとでは真に安住できないことを直感的に気づかされた時に起こる不安と恐れと、それ故に、今の状況にしがみつこうとする本能的な行動があるように思えてなりません。
  この悪霊(レギオン)にとりつかれた男の癒しが、精神障がい者に対するただ単なる対症療法的なものであるとすれば、人々はそれ程(イエスを町から追放するほど)恐れはしなかったでしょう。ちょうど今日の私共が、精神治療者を喜んで歓迎するように、人々はイエスを歓迎したに違いありません。しかし、もしひとりのノイロ-ゼになった人を癒す医師が、同時にその人間をノイロ-ゼさせた悪魔的な力としての競争社会をつくり出す体制を、あるいは権力を、その下に従順に生きることによって、自らの生活の安定を優先さっせる人々の行動をも止揚する(否定的に乗り越える)力をふるう者であるとしたら、精神治療者を歓迎するように、歓迎することがでるでしょうか。
・・私共は、従順であろうと、反抗的であろうと、一つの秩序の下にしか生きられない者です。1950年代後半から、フランスにヌ-ベルバ-グ(nouvolle vague)~新しい波~といわれる新しい映画運動が起き、それまでの既成の技法を排除して自由で新しい映画が作られた。日本にも影響がありました。私位の年代から上の人はご存じだと思う。この世の営みにおいて新しい波が起こり、それが古くなって、又新しい波がおこるという繰り返しが続くのです。「日の下には新しいものはない」(コヘレト1:9)と、言い切ったコヘレトの言葉の著者の洞察は鋭いと言えます。歴史に内在する新しさは、必ず古くなっていく新しさである。
・・エスの同時代には、多くの奇跡行為者がいたと言われる。抜魔師が病気を癒していたにちがいありません。イエスもそのような者の一人として見られました、決定的にちがう点は、イエスは人々と同様一つの秩序に属しながら、それを超えるものの下に生きたところに、イエスの新しさがある。そのイエスの新しさは、この世が喜んで迎えるようなものではありません。この世が憎むイエスであるがゆえに、この世の救い主でもあるということに、私共はいつも気づいていなければならないと思います。
・・ギオンにとりつかれた男は、正気になって、家族のもとに帰って行きました。正気とは何か。古き秩序に従順な者として、家族のところへ帰って行くことでしょうか。正気とは、ただ単に社会復帰ではない。正気とは、それ以上のことです。
・・彼はイエスの証人として帰るのです。イエスは家族の者たちに、彼が神の恩恵を告げ知らせ、家族にとって、彼が神の憐れみの生きた証拠となるように、望まれるのである」(シュラッタ-)。今までの秩序が(そこで病んでいた)古いものとして 、神の恵みの下に生きる新しさをもって古き秩序に帰るのです。
 
・・このように物語を読むとき、イエスが非人間的な状態に置かれている人間に対して、激しい憤りをもって迫られていることを知ります。悪霊にとりつかれた者の癒しは、彼をそこへ追いやった悪魔的な力と、その力を本当に認識しないで、彼らを異常な者として切り捨てて、生きている者たちへの怒りでもあります。
・・この物語には、そのようなイエスの怒りと、悪魔的な力の犠牲者であるひとりの人間が、その力から解放されて、新しい使命をもって、再び家族のもとへもどって行く出来事が語られているのであります。
・・この迫力あるイエスの出来事を、現代を生きる私たちの中で、そのものとして信じ、証言していくことができれば幸いです。