昨日は鶴巻に客が見え、連れ合いと3人でその客の要望で小礼拝をしました。私はヨブ記38章の嵐の中からヨブに語られた神の言葉から感想を述べました。高村光太郎の「死ねば死に切り、自然は水際立つ」という言葉にも、一人の人間の生死に関わる存在を超越する自然の大きさのようなものを感じますが、ヨブ記38章の神の言葉にもそれを強く感じます。「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ」(4節)とあります。このような言葉をかみ締めますと、人間存在のはかなさという限界とその限界の中にあるかけがえのなさを思わされます。人間は神や自然のまでには徹底的に受け身の存在でありますが、そこに徹するときに人間に与えられた受動=能動の生へと導かれるのでしょう。私たちは余りにも近代主義的な人間中心主義的なパラダイムに毒されているのかも知れません。
今日は、「父北村雨垂とその作品」(49)を掲載します。
父北村雨垂とその作品(49)
以下の句の前にも作品が書かれていますが、表と裏の字が染み出て判読できないものが数ページありますが、それは割愛します。
「北風に柿が某『戦犯』の夢を描いた」という下記に出て来る句が、父の句の中で唯一私が記憶しているものです。現在週の前半に生活しています神奈川県秦野市鶴巻温泉の周辺には、各家の庭や道端に柿の木があり、実った柿が沢山ついている風景がよく見られます。私が小さかった頃の横浜でも同じような風景がありましたが、今は違います。懐かしい思いが甦ります。
汀
冬の『汀』青の孤獨(こどく)と白の孤獨(こどく)
ぼろ靴の『思想』は昇天したよー野菊
北風に柿が某『戦犯』の夢を描いた
刻明に意識を消してしまった夜明け
赤だ黄だ青だと畜生とはなれず
太郎は蒼白し三郎は赫い肌
狂人の諸君と分光器が呼びかけた
強烈な悪意だカンナは赤も黄も
錫の艶に赤銅の艶にこほろぎを聴いた
情恨あきらかに朝の陽も夕の陽も
紙幣はざんぎゃくな表情だ猫柳
自殺と『たん生』がパレットの上で舞踏(ぶとう)
音だけが通(とお)る夜だ貨物列車
光琳の風格だ椿が咲いた
霞が童話を聴かせて呉れる峠
原色の分裂を明日の神話が創造した
絵の具皿が活き活きと思想を伏せた
空は蒼い『無』の箱は蒼いものか
雑草が十種で青も十種だった
銀座の夜を着なさい現在(いま)の娘
花の純情をよこしまな花屋だよ
おんなの会話がおどってゐる屑籠