なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(51)

以下の「黙想と祈りの夕べ通信」には「老いについて」の言葉があります。私は福音と世界の随想メッセージで、確か2011年10月号ではなかったかと思いますが、その10月号は9月半ばに発行されることを意識して、「関係としての『老病死』」について書きました。そこでは「老病死」を個人の問題だけではなく、関係としての人間という視点から問題にしました。支えられる人も支える人も共に喜び感謝できる豊かな関係が、老病死の現実に置いても開花するのであれば、このことを否定的に考える必要はなく、そのものとしてありのままに受け取ることができるようになるのではないでしょうか。

黙想と祈りの夕べ(51)  (通信 51 2000・ 9・17発行)

 お年寄りのいる家族にとって、そのお年寄りのお世話に限界を感じ、施設に入所させるということには、何か割り切れない気持ちが残るもののようです。9月24日の「老いをテ-マにした礼拝」の案内と出欠を問うた往復ハガキを、今年も75歳以上の諸兄姉に出しましたところ、その返信の近況報告の欄にこのように書いて来られた方がありました。それはS兄のものですが、代筆された娘さんが、「…実はいつも心の奥では後ろめたさがあって、同胞も友達も『良かった』と言われましたが、私自身は『これで良かったかどうか』自問自答の日々でした。でも今は施設がとても良くして下さり、真実『良かった』と思っております」と。

 私は、お年寄りのお世話をその家族が引き受けなければならないという考え方に対して、いささが疑問を持っている者です。出来る人があれば、誰がしても良いのではないかと思うからです。現実にはなかなかそうはいかないのですが、家族を閉じた形ではなく、開かれた形で考えられるようになればと願っています。お年寄りや病気の人、いわゆる社会的弱者と言われる方々を、みんなで支えるという社会が、早く到来するようにと願っています。そうなれば、Sさんの娘さんが感じたような負い目はなくなって行くでしょう。

 10日の「黙想と祈りの夕べ」の「分かち合い」では、上記のようなお話を私がしました。続いて一人の姉妹が、人間のからだの衰えについて感想を話してくれました。

 彼女は今月エイジグル-プの婦人会の当番に当たっていて、今年は教会で例年のような敬老祝会がないので、婦人会のときにお年寄りの方にお話をしてもらおうと思い、いろいろビデオを探してみた。老いをたのもしく生きる人のビデオや、健康の秘訣のビデオや、ある作家が痴呆の妻を看護するビデオなどを観たが、教会で不特定多数の女性の会で観るのには適当なものが見当らなかった。たまたま老いとは全く関係のない、オ-ドリ-ヘップバ-ンが案内役の世界の庭園を紹介する美しいビデオがあったので、それを婦人会で観た。なぜ美しいものを選んだのか、後で考えて見て、そこには老いて衰えてゆくことに対して、そのことをマイナスと見る自分の価値観がどこかにあったのではと反省させられた。死については比較的明るく受けとめられ、讃美歌にもそのようなものがあり、それを明るく歌うことができるように思う。ところが、からだの衰えに対しては、私たちにはどこかでそれを忌避するところがあるように思われる。自分も以前膝が痛くて歩行が不自由になったことがあるが、その時自分を見る他人の眼が大変気になった。老いてゆく人間の弱さを見たくないという無意識が私たちのうちには強いのかも知れない。そして美しいものを求めてゆくことはよいと、勝手に思ったりしているのかも知れない。老いてゆく人の弱さに対して、教会がどう配慮しているか。老いそのものを見つめ、明るく受けとめ、それを受け入れていかれる率直な気持を持ちたいと思うと。

 私たちの聴覚や視覚には、ある志向性があるように思われます。聞こえているはずなのに聞こえない(聞いていない)、見えるはずなのに見えない(見ていない)というように、ある選択が行われているのです。同じように私たちには、厳しい現実を避けて、心地よい現実を好む傾向(性向)があるのでしょう。好むと好まざるとにかかわらず、現実をありのままに直視することは、何事においてもその出発点として大切なことです。