なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

発題「聖餐について」(2007年7月常議員会にて)

 2007年7月常議員会で言質をとらない自由な「協議会」という約束で行った私の「聖餐について」の発題は下記の通りです。この発題から私に対して当時の教団議長から「教師退任勧告」が2度、そして「戒規免職処分」という結果になりました。そのために今回私は裁判という形で処分の撤回を求めて問題提起をしました。昨日人から頼まれて2006年1月号の「福音と世界」に書いた私の文章を送って欲しいと言われ、偶然この発題の原稿に目を通すことになりました。改めて読み直してみましたが、どうしてこの私の「聖餐について」の発題が、聖餐についての議論へと展開せずに、戒規免職処分へと動いて行ったのか、未だによくわかりません。

 私の戒規免職処分があってから、教団の中で聖餐についての議論が委縮しているように思われます。教会の宣教のあり方についても、聖餐のあり方についても、もっともっと自由に議論を積み重ねていきたいと思い、敢えて常議員会での私の発題を掲載します。この発題の時間は20分ということでしたので、要点だけを述べ資料を添えました。みなさんのご判断を仰ぎたいと思います。

     発題「聖餐について」 北村慈郎       2007年7月9日(月)常議員会で

 はじめに

 この常議員会での「聖餐について」の懇談会は、山北議長から発案されたもので、第1回常議員会議事録14頁で山北議長はその意図を「常議員としての資格に触れるので、議論する必要があるということ」と述べている。
 私はこの発題で、山北議長が言うところの「正しい聖礼典の執行」とは何かを問い、未受洗者に開かれた聖餐が本当に教憲・教規違反なのかを含めて、問題提起したい。
 
(1)第35回(合同後20回)教団総会における聖餐式は、「正しい聖礼典の執行」であったのか?(「ふさわしくない仕方で」で行われた聖餐式であったのではないか?)

 第一回常議員会でM常議員が、名指しはしなかったが、暗に私を指して、教団総会での聖餐式で陪餐を拒否した者がいるのは問題だ、という主旨の発言をした。教団総会での聖餐式を退席した人もあるかと思われるが、私は退席せず、総会会場にいて陪餐には与らなかった。それは教団総会に教団に距離を置く沖縄教区から総会議員が出席していなかったからである。沖縄教区との関係が回復しないまま開催されている教団総会で行われた聖餐式は、一つへの信仰をその本質とする聖餐からすると、「ふさわしくない仕方で」行われた聖餐式ではないかと私には思われたからである。
 この点については、村椿嘉信さんに了解を得ているので、「『ふさわしくない仕方で』聖餐を祝うということはどういうことか?」(Kyomei〔共鳴・饗命〕Nr.64/2007.4)(資料1)を参照されたい。

 この資料は、ミヒャエル・ヴェルガー著『聖餐で何が起きているか』の第4章の翻訳であるが、村椿さんはこのように書いている。
 「この理解によれば、たとえば日本基督教団の中に、差別があったり(性差別!)、教団に距離を置いている教区があるのに(沖縄教区!)、教団総会において聖餐が祝われるということがいかにまやかしであるかが明らかになる(特に以下の「第2の解釈」を参照のこと)。もし聖餐が、このように「ふさわしくない仕方」で祝われるとするなら、私たちは、それぞれの判断においてその場から「退席」すべきではないだろうか」。

 何が正しい聖餐式か?という問題において、何を基準にするかによってその判断が異なるということを、最初に述べておきたい。教団信仰告白、教憲教規を基準とする人たちのいう正しい聖餐執行が、イエスの晩餐からすると「ふさわしくない仕方」での聖餐執行ではないかという問題を含んでいるということである。
 
(2)未受洗者に開かれた聖餐式の執行に至る個教会の取り組みについて(紅葉坂教会の事例)。
 
 この点については、私の書いた「聖餐につての個人的体験と一教会の試み」(「福音と世界」2006・1)(資料2)と、紅葉坂教会の聖餐に関する取り組みの時系列(資料3)を参照。

 ここで申し上げたいことは、紅葉坂教会の未受洗者に開かれた聖餐式執行は、教会総会の議を経て決断した一個教会の意志決定であるということである。紅葉坂教会の歴史的な伝統としての組合教会では、このことは教会として許容される事柄であり、合同教会としての日本基督教団においても然りではないかと、私は考える。しかも、一個教会としてのこの決断は、決して軽々しくしたものではないということをご理解いただきたいと思う。
 
(3)未受洗者に開かれた聖餐を可とする根拠は何か。

 a)聖書学の成果から

 この点に関しては荒井献「新約聖書における聖餐」(『イエスと出会う』163-192頁所収)を参照(資料4)。荒井献さんは、パウロの場合は閉じられた聖餐、マルコの場合は開かれた聖餐と考えられ、新約聖書ではどちらもあり得るという見解である。

 b)イエスの招きから

 裏切り者イスカリオテのユダも主の晩餐(マルコ14:12-26、マタイ26:17-30、ルカ22:7-20、ヨハネ13:21-30、Iコリント11:23-25)から排除されていない。またイエスの徴税人や罪人との会食(マルコ2:13-17、マタイ9:9-13、ルカ5:27-32)、5000人あるいは4000人の給食(マルコ6:30-44、8:1-10、マタイ14:13-21、15:32-39、ルカ9:10-17、ヨハネ6:1-14)に招かれた人々において、洗礼を受けていない人々が当然含まれていたと考えられる。イエスの招きは人を限定しない包含性と開放性に彩られている。

 c)教会論、宣教論から

 教会をどう考えるか、宣教をどう考えるかによって未受洗者に開かれた聖餐もあり得るのではないか。神田健次『現代の聖餐論』(紅葉坂教会・教会だより「学びと語らいの集い『聖餐について』」(資料5)参照。
    
(4)未受洗者に開かれた聖餐式執行は教憲・教規違反か?

 紅葉坂教会規則第8条(陪餐規定)削除申請に対する教団の回答(『教憲教規の解釈に関する先例集』67-68頁)(資料6)及び中部教区から出された「未受洗者の陪餐について」への信仰職制委員会の答申(資料7)は、教憲教規の正しい解釈か?

・唯一陪餐規定が記されている準則である(紅葉坂)教会規則第8条削除は、教憲7条に基づく決定であること。
・陪餐規定は教規第86条における教会規則に規定しなければならない事項にはないこと。
・教憲教規そのものにとって未受洗者陪餐は想定外であること。想定外である未受洗者陪餐について教憲教規が規定しているとは思えない。信仰職制委員会の答申はすべて教憲教規における間接的な根拠を挙げているに過ぎない。
・教団信仰告白「旧新約聖書は、…教会の拠るべき唯一の正典なり。されば聖書は…信仰と生活との誤りなき規範なり」という条項によれば、日本基督教団は教憲教規に勝って、聖書を拠りどころとしている教会である。その聖書そのものにおいて荒井献氏によれば、未受洗者に開かれた聖餐も、閉じられた聖餐もあり得るというのであるから、未受洗者の陪餐を教憲教規違反だからといって切り捨てることは、教団信仰告白を重んじる者にはあり得ないことではないか。
 いずれにしろ、聖餐に関する問題は、規則で云々するべき事柄ではないのではないか。

(5)伝統的な受洗→聖餐という未受洗者に閉じられた聖餐式を否定するものではない。
多様性があってよい。

(6)要望:1987年発行『聖餐』の段階へ戻して、議論を積み上げてもらいたい。
村山盛忠「日本基督教団における聖餐」(『聖餐』所収)参照。