なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(39)

           船越通信癸械后  。横娃隠嫁1月8日     

・1月1日の日曜日は、来る人が少なく、誰が来るかその日にならないと分からないので、説教は私がしますが、礼拝の担当はその日来た人にしてもらいましょうということで、決めていませんでした。ですから、週報にも司会者・献金当番・当番の名前は入れておきませんでした。その日に来た人が担当すればよい、という考え方も、どちらかといえば私は好きです。ただこの考え方で毎週の日曜日の礼拝を貫くわけにもいきませんので、毎月の役員会では次月の担当者を決めています。上記の理由で1月1日だけは決めずにおきました。私は担当者の3人が来なければ、二つの役割を兼ねてもらうか、場合によっては私がすればと思って、1月1日の日曜日を迎えました。ただMさんは今年は帰省しないので礼拝にはきますとおっしゃっていましたし、Sさんにはクリスマスの時、家にいるなら礼拝に来てねと声はかけておきましたので、私を含めて最低3人は集まるので、何とかなるだろうと思っていました。1月1日の当日Mさんに司会を、Sさんに献金当番をお願いしました。当番は自主的にHさんが引き受けて下さいました。今日の週報の前週報告にありますように、13名の出席者があり、私もびっくりでした。礼拝後お茶の会が終り、お2人の方と面談の時を持ち、私は教会の戸締りをして鶴巻に帰りました。

・1月2日は朝7時過ぎに鶴巻を出て、寿の越冬に参加しました。8時40分頃寿公園の越冬本部テントで参加者名簿に名前を書き、今年の資料をいただきました。しばらくして炊き出しの準備が始まり、野菜の切り込みをボランティアの方や当事者の方と一緒にしました。最近の寿の越冬は、年末年始の期間だけ寿公園に2階建て2棟の大きなプレハブ宿泊棟が出来て、そこに路上生活者の方々が宿泊していた以前の越冬と比べますと、随分規模が縮小しています。以前プレハブ宿泊棟で受け入れていたのを、今は自立支援センターや年末年始だけドヤを市が用意して受け入れているようです。夕方配食するぞうすいのための野菜の切り込みが終って、働いていたボランティアの方が散りかけたとき、夜のパトロールにもっていく温かなスープ用の野菜の切り込みもしてください、と声がかかり、残っていた人でしました。私も一緒に12時過ぎまで野菜の切り込みをしました。それが終りかけた時、携帯が鳴り、久しぶりに画家のS君と会うことにし、寿を後にしました。今年の越冬参加はこの日の午前中だけでした。

・1月3日は、私の肉親の兄弟姉妹で一人だけ残っています姉が都筑区にいますので、そこに新年の挨拶に連れ合いと行きました。1月4日は、紅葉坂教会の青年5人が鶴巻に来ました。その中の2人が先日のクリスマスに洗礼を受けましたので、そのお祝いを兼ねて、連れ合いが料理を作ってもてなしました。正午に鶴巻温泉駅で待ち合わせ、帰ったのが午後8時過ぎの電車でした。夕方温泉に入っていきたいというので、7人で弘法の里湯という秦野市が運営しています日帰り温泉施設に行き、温泉をみんなで楽しみました。私は少しお酒が入っていましたので、早めに上がり、その施設の2階休憩所でみんなが上がるのを待ちました。夜のご飯までは予定していませんでしたので、私はみんなに先に帰ってもらって、唐揚げ屋さんで唐揚げと唐揚げおにぎりを買って帰りました。この唐揚げ屋さんの唐揚げおにぎりは鶴巻の私の所に来る人に食べてもらうと、みんな美味しいと言ってくれます。後からマンションに行くと、みんなは持参したケーキをいただき、紅茶を飲んでいました。唐揚げと唐揚げおにぎりを出すと、男性青年4人はケーキを食べながらおにぎりも見事に平らげましたが、一人の女性青年は、さすがに手を出せませんでした。その後、この青年たち一人一人の人生に、いのちの神の導きがありますようと祈りつつ、鶴巻温泉駅まで送り、そこで別れました。

・1月5日木曜日、いつものように鶴巻を昼過ぎに出て船越教会に午後3時ごろ着きました。お正月気分がまだ抜けず、説教の準備や裁判支援の作業もまだあるのですが、少し読みかけていました栗林輝夫さんの『現代神学の最前線』を読み始め、6日にかけて読み切りました。リベラリズムの弱さとフンダメンタリズムの強さを改めて認識すると共に、バルト、ボンフェッファー、ブルトマン、ティリッヒ以降の神学の潮流が多元的に広がっていて、その全体像を捉えるのが至難であることを、この本を読んで、名前も知らない神学者も多くいましたので、痛感させられました。ただ栗林さんも言っていますが、自分のスタンスとしては「解放の視点」を大切にして聖書や神学の取り組みも自分なりに続けて行きたいと思っています。

・1月1日の礼拝説教は、ヨハネ福音書1章14~18節からメッセージを取り次ぎました。3・11以降の日本社会は、戦後に形作られた日本社会の矛盾を益々露呈し、既存のものが崩壊し、新しい形が現れるまでの過渡期にあるように思われます。特に資本と国家の癒着から自由になるまで私たちは苦しまなければならないでしょう。そのような日本社会の中で少数者ではあるが、私たちキリスト者は何よりも神のみ心である神の支配(国)の実現成就を信じて生きていきたいものです。そのためには、私たちの内側から私たちをそのように生かす命が必要です。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(14節)というヨハネの語る真実には、その命の源が示されているように思われます。肉となった言であるイエスの人格は、肉としてこの世の支配を受けますが、言はこの世の支配を排し神の支配を肉においても貫徹しますから、「恵と真理に満ちています」(14節)。そのイエスの豊かさは、人をその外見ではなくありのままの存在として大切にします。イエスは「貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている」(競灰螢鵐6:10)方です。言(命と光)を欠く肉である人間は、肉欲と権力(資本)に無抵抗です。言が肉となったイエスに従って生きる者は、イエスと共に肉に言を宿して生きる者ではないでしょうか。