なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(35)

     マルコ福音書による説教(35) マルコによる福音書8:34-9:1
        
・かつて私は前任の紅葉坂教会で青年時代を過ごしましたが、高校三年のクリスマスに洗礼を受けてから、間もなかった頃、高校生会の時か青年会であったかは忘れてしまいましたが、聖書研究の時に、当時神学生として紅葉坂教会に出席していました、現在は牧師を隠退していますTさんが、「あなたの十字架は何ですか」と一人一人に、結構強い語調で問われたことがありました。今日のマルコによる福音書の8章34節にあります「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」という群衆や弟子たちに対して語られたと言われますイエスの言葉について学んでいた時でした。

・その時は、全く予想もしていませんでした質問が自分に向けて突き付けられましたので、何を答えたのかよく覚えていません。けれども、そのことを通して、私の中には、一体「自分の十字架」とは何かとう問いが、響いて無視することが出来なくなってしまいました。そのことは、あの時からもう50年の時間が経過しましたが、今も変わりません。そういう意味で、今日のマルコによる福音書の記事は、聖書のその他の記事と比べました、私にとりまして個人的に大変印象深いところになっています。

・ここで、イエスは、「群衆を弟子たちと共に呼び寄せて、『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』」と言われたというのであります。今お話しましたことがきっかけとなりまして、このマルコによる福音書の言葉を自分自身に語られたイエスの言葉として受けとめて、自分の中で反芻し、吟味してゆくうちに、イエスを信じる信仰が自分の中でどのような方向を与えてくれるのかが、徐々にはっきりしてきたように思います。イエスを信じるということは、あのイエスが処刑されたゴルゴダの丘へ十字架を背負って黙々と歩まれるイエスの苦しみに連なることを意味するということです。それまでは、受洗をしてキリスト者として歩みだしてはいましたが、自分が日々生きて行くことが、どのような方向に向うのかが漠然としていて、信仰と生活がどこかで遊離しているように思えて仕方ありませんでした。そんな不安な気持ちが、この「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従ってきなさい」というイエスの私自身に向けられた言葉によって、少しずつ消えていったのです。

・ボンフェッファ-の書いたものを読んでいて知らされましたが、ヨ-ロッパのキリスト教社会には、「機械仕掛けの神」という言い方があるようです。普段自分で何でも処理して生活できる時には、神のことなど全く自分の生活から除外して生きている人が、自分の手に余る困難なこと、病気とか不幸に見舞われたときにだけ、神に顔を出してもらうという信仰の在り方です。随分都合の良い信心ですが、案外私たちの中にも同じようなことがあるのではないでしょうか。イエスを通してイエスの父なる神を信じるというよりも、社交に近い感覚で教会の交わりをうけとって、信仰生活をいざという時のための保険ぐらいにしか考えていないのです。そこには、今の自分と自分の生活の保障を信仰に託すという私たちの在り方が、何ら問われないものとして前提されています。その場合、神との関係は、その人の一生をかけた対話ではありません。神に呼び出され、神に愛された者として、その神の呼び出しと愛に一生をかけて応答してゆくという、一人の人の存在と全生活とが神との関わりの中で受けとめられて行くようなものではありません。「機械仕掛けの神」とは、神を自分の都合に合わせて、顔を出してもらったり、引っ込めてもらったりするような信仰の在り方を言っているのです。

・ここには、今日のマルコによる福音書の記事の中に記されています、「自分の命を救いたいと思う者」の信心の在り方が示されているのではないでしょうか。「自分の命を救いたい」という大前提を立てるときには、その「自分の命」は他の人の命から分けられて自分だけのものとして独立して考えられています。そもそも命はそういうものではないでしょう。自分や自分の家族や親しい者たちだけで命は立ち上がっているのではありません。「自分の命」はそもそも、両親を通して遥かかなたの時から、ちょうど水源から海に流れ下る川の流れのように、前後の人々に繋がっているのです。また、現在命ある者としてわたしたちが存在しているという事実には、多くの人から命を受けているということがあって、はじめて可能とされています。「自分の」命は、全ての命の一端に過ぎません。そのはじまりにおいても、自分自身で得たものではなく、神から贈り物として与えられた命です。自分の持ち物のように、「自分の」命ということは、大変おこがましいことであります。まして命そのものから自分だけの命を区切って、「自分の命を救いたい」と思う者は、命そのものについて全くの無知でしかありません。イエスは、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失う」と断言なさいました。

・そして、「わたしのため、福音のために命を失う者は、それを救うのである」と申しました。これは「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従ってきなさい」の言いかえと考えてよいでしょう。

旧約聖書に出てくるイスラエルの父祖アブラハムは、信仰の人といわれています。彼は自分の故郷と家を捨てて、神が示したもう見知らぬ地に出ていきました。「あなたを祝福する」という神の約束を信じてです(創世記12:1以下)。このアブラハムにおける信仰は、現にあるアブラハムと彼の生活の保障ではありませんでした。今の自分とその生活の確かさを保障する力が信仰であるとすれば、信仰は豊かな都市文明のメソポタミヤアブラハムとその親族の繁栄を維持する力であったにちがいありません。けれどもアブラハムは、神を信じるがゆえに、メソポタミヤを捨てたのです。メソポタミヤは、神のみ心にふさわしい場所ではなかったからです。おそらくエジプトで奴隷だったイスラエルの民がモ-セに導かれてエジプトを脱出して「乳と蜜の流れる、約束の地カナン」を目指したのと、アブラハムの旅は本質的には同じだったと思われます。神の約束のもとに兄弟姉妹の絆を共に生きる神の民として歩むためです。強大な王の力を中心として支配する者と奴隷のようにこきつかわれる者とが、とても対等・同等な兄弟姉妹関係とはかけ離れた主従関係にあるエジプトでは、イスラエルの民がその本来のものとして生きることはできません。エジプトを脱出することによって、神の約束にかけたのです。

・そういう意味では、メソポタミヤもエジプトも、自分の命を得ようとして、失ってしまうところだったのではないでしょうか。イエスは、「わたしのため、福音のために自分の命を失う者は、それを救うのである」と語られたと言われますが、神の約束の実現成就のために自分の命を使って生きようとして、メソポタミヤを捨てて旅立ったアブラハムであり、モ-セ導かれてエジプトを脱出したイスラエルの民でありました。けれども、私たちはアブラハムの旅ではじまった実験が、イサクとイシマエルの葛藤という形で、またモ-セに導かれたイスラエルのエジプト脱出が荒野での金の子牛を作ったり、飢えのためにエジプトの肉鍋を恋しがるイスラエルの民によって躓いてしまうことを知っています。乳と蜜の流れる地カナンに定着した生活がはじまりますと、ペリシテの脅威を恐れて、王を立て、王国を選ぶことによって、ますます約束の地から遠く離れてゆくことになります。神の約束の地に至る道は、前方に向かってはっきりと見えません。

・イエスの十字架への道は、神の約束の地に至る道です。私たちは、主の祈りを祈りますが、その主の祈りの成就する神の国の実現の将来を、どれだけ真剣に信じながら、祈っているでしょうか。「人の思いではなく、神の思い」を、というイエスは、十字架の道において、神の思いを自分の身に引き受けているのです。「自分の命を救う者」としてではなく、「自分の命を捨てて、自分の十字架を背負う者」として、そのことによって神のいのち=愛こそが、永遠であることを、「神はそのひとり子をたもうほどに、この世を愛してくださった」ということが、真実であることを証言しているのです。

・私たちは、イエスの十字架によって「わたしのため、福音のために、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従ってきなさい」という呼び掛けに従って生きる人々が、呼び覚まされてきていることを知っています。暗殺される前日に、マ-チン・ル-サ-・キングは、メンフィスにおいて、2000人の黒人を前に、講演し、こう語ったと言われます。「私には、これから何が起こるのか分かりません。が、私はもはやそれを気にしていません。私は山の頂上に登ってしまいました。他の誰もがそうであるように、私は長く生きたいと思います。長生きすることは、長く生きたというだけで、すでに何らかの意義がありますから。しかし、私はもはや長生きしようとの気遣いをしていません。私はただ、神の意志を遂行したいだけです。主は私に山に登ることを許したまいました。私ははるか下の方を見渡しました。そして約束の地を見ました。もしかしたら、私はその地へ、みなさんと共に行くことはないかも知れません。しかし私は、私たちが民族として、あの約束の地へ到達するのだということを、今晩みなさんに知っていただきたいのです。このようなわけで、私は今晩、幸せな気持ちです。私には何の気掛かりもありません。私は誰をも恐れていません。私の両眼は、主の来臨の栄光をすでに見たのですから」。

・キングが見た「約束の地」とは、この土地において正義と愛が実現している神の世界というビジョンだと思います。黒人が差別されない世界、差別する白人が黒人と共に生きる世界です。「わたしのため、わたしの福音のため、…」と言われるときに、イエスが心から願い、またイエスがもたらしたよき音ずれは、この世に生きる苦しめる人々、病気や愛する者の死への恐れや、人々から汚れた者として、人間あつかいされずにいる人々や、あやまちを犯して苦しんでいる人が、神の命与えられた人間としていやされ、回復して、共に生きることができるためです。

・私たちも、そのような約束の地を目指して旅する者ではないでしょうか。そのような旅人は、イエスの十字架を自分なり背負って、イエスに従ってゆくことが求められているのだと思います。「自分の命を救う」ことを願っている私たちの中に、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従ってきなさい」と呼び掛けていてくださる方がいらっしゃるが故に、私たちは約束の地を目指して、共に生きてゆく恵みと喜びにあずかることができるのではないでようか。そのことを大切に歩みたいと思います。