なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(36)

 今週は少し早めですが、マルコ福音書による説教(36)を掲載します。

     マルコ福音書による説教(36)マルコによる福音書9:2-13、
                 
・私たちは、率直に言って、弱くあり、過ちを侵しやすく、神のみ心を汚すことの多い者であります。一人の人間として、それぞれの与えられています日常の生活におきまして、人間としての尊厳をもって生き抜くことは、並大抵なことではありません。周囲の状況に合わせ、人々と抵抗なく生きて行くために、自分を殺し、演技している空々しい自分を感じることもしばしばではないでしょうか。人から本心を打ち明けられたりすると、返ってたじろいでしまうのであります。本心と本心のぶつかり合う関係はしんどくて背負い続けられません。私たちは、お互いに本心を内に秘めながら、行きずりの表面的な関係で、うまくぶつかり合わずに生活する知恵を身につけて、何とか平穏の内に毎日を過ごして行こうと努力しているのかも知れません。けれども、信仰は、そういう表面的に生きている私たちを深みへと導いて行きます。

・浅野順一さんだったと思いますが、人生には穴ぼこに落ち込むような時があると。例えば、健康だった人が突然病気になって、今までの日常の生活が奪われてしまったとします。そういう病気のような事態は、個人にとって非常事態です。けれども、それまでは何の疑いもなく過ごしていた毎日のその人の生活が出来なくなることによって、一体今までの自分の生活は何だったのだろうか。そういう生活を、あたかも当然の事として生きていた自分は、それで本当によかったのか、という問いにさらされてしまいます。そこで、その人は、今までの日常の生活の中に隠れている深みを見ることになるわけであります。浅野順一さんは、そういう穴ぼこに落ちたような時こが、その人にとって大変重要な時なのだと言います。

・ペテロにとって、イエスから受難と復活の予告を聞くまでは、まだイエスに従って行くということの意味と重さは十分に理解されていませんでした。師であるイエスの振舞いから、受難と復活の予告以前にペテロが見ていたものは、どちらかといえば輝かしい面ばかりだったかも知れません。病人を癒し、悪霊を追放し、律法学者、パリサイ人との論争にも、見事な答えで打ち勝っているイエスです。多くの人々がイエスのもとに集まり、熱い視線がイエスに向けられているところで、イエスに従う弟子として彼らはイエスと共にいたのです。言いようのない誇りに捕らえられてとしても、当然でしょう。

・ところが、イエスに受難の時が迫り、イエスが「そのことをはっきりと」群衆や弟子たちに話したとき、ペテロは、イエスをわきへ連れて行き、そんなことを言うイエスをいさめたのです。すると、ペテロは逆にイエスから、「サタンよ、引き下がれ」と言われてしまいます。そして、「わたしに従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と、念を押されてしまいます。ペテロの動揺ぶりが、伺えます。今までとは、全てが違うように思われて、ペテロのイエスへの信頼も崩れかけています。すでに、この時点のペテロは、イエスが十字架にかけられて殺された後、自分たちにも当局の追求の手がのびるのではないかと、戸をしっかり閉じた家の中で恐れていたペテロであり、エルサレムを離れて故郷のガリラヤに帰ってしまおうとしていたペテロと同じ姿です。動揺と混乱、不安と恐れに捕らえられて、信仰のカケラも見られない、あわれな姿のペテロです。

・私たちは、このようなペテロと同じ自分に失望落胆したことがないでしょうか。私たちは、ペテロと同じように、ペテロがガリラヤの湖畔で、はじめてイエスの「わたしに従ってきなさい」との招きに、心躍らせて従ったときに聞いた喜びのおとずれが、かつて私たちの心を打ったことがあったにちがいありません。けれども、厳しいこの世の生活の中でその喜びを持ち続けて、イエスの喜びの燈をその厳しいこの世の生活の只中でかかげ続けることを、投げ出してしまう自分を経験したことのない人はいないと思います。

・ペテロが、イエスによって山に連れて行かれたのは、ちょうどそのような時でした。自分のイメ-ジしていたイエス像が打ち砕かれて、イエスご自身との交わりが断絶しそうになっていたときです。イエスが自分たちから離れて、自らの十字架への道にひとり進んで行かれようとしていた時です。

・私は、この山上の変貌の記事が、マルコの福音書のこの箇所に置かれていることに、大変深い感動を覚える者であります。これから受難へと向かうマルコによる福音書の記事において、ペテロは、イエスとの関わりにおいては後退の一途をたどります。イエスへの無理解が、ペテロの弱さと不信仰の顕在となって、イエスを否認し、イエスを裏切るところまで極まります。イエスと一体となって歩み通すのではなく、イエスから離れ、イエスから遠くに立つことによって、この世の権力者たちと、その同調者たちと同じ地平まで、ペテロは後退してしまうのです。イエスがいたもう病める者や悪霊に疲れた者たちの癒しと回復の場所、差別された者たちとの共同の食事の場所から、心身の弱さや社会的弱者を遠くへ押しやるこの世の権力者の場所へと後退するのです。

・そういうペテロの人間的なもろさが露呈してゆく福音書の受難物語のはじまる前に、この山上の変貌の物語が置かれているのは、そのようなペテロの立ち直りが、すでにこの段階で企てられていることを意味します。

・燈は、どんなに暗いところでも、それをともし続ける人にとっては、光であり、道であり、命です。ともす人が光であり、道であり、命なのではありません。かかげられている燈が光であり、道であり、命なのです。

・イエスに連れていかれた山の上で、ペテロが見たものは、イエスの栄光に輝く姿です。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモ-セと共に現われて、イエスと語り合っていた」(3・4節)。

・ペテロは、これまでもイエスと行動を共にしてきましたが、この時に類する経験を断片的にではありますが、してきたと思われます。らい病人が癒され、目の不自由な人の目が見えるようになり、耳の不自由な人が聞こえるようになったときの、権威あるイエスに触れたとき、この方には神が共におられることを感じたに違いありません。山上の変貌の出来事は、イエスがまことにメシヤであることを啓示しています。

・「先生、私たちがここにいるのは、すばらしいことです」。ペテロは、とんちんかんにも、小屋を三つ立てて、その山上に留まろうと、とっさに考えました。けれども、山上に留まることはできません。雲の中から声がして、「これはわたしの愛する子、これに聞け」と、イエスを指して弟子たちに語られます。そして、気づくと、その山の上にはイエスと三人の弟子たちだけが立っています。

・イエスとエリヤとモ-セが語り合っていた、輝かしい場所は、そこにはなく、いつものようにイエスとそして3人の弟子たちだけでした。イエスは光り輝く存在としてのイエスではなく、いつものイエスです。そして彼らもその目の前にいる師であリ、友であるイエスを彼らの無理解な目でしか見ることができないのです。一瞬の出来事として、そうでない形でイエスの姿を垣間見た弟子たちでしたが。

・「彼らは、たといわずかな瞬間であったとしても、あの別の、よりよい目で注視していたところの方と、目に見えないきずなで結びつけられていた。彼に聞き彼に従順であろうとする彼らの止みがたい衝動は、彼らの不信仰と彼らの弱さにもかかわらず、力強い慰めを経験していた。よりよい認識が今や彼らの中にいわば蓄積されていた。彼らはそれをまだ使うことはできなかったけれども、それはそこに現に存在し、将来再び実り豊かなものになるに相違なかった。私たちが他の場合よりももっと神に近くあるかのような予感に満ちた瞬間は、私たちにとっていつも祝福である。そして、その中には、いつも、私たち自身がまだあまりにも未成熟であるためにそれをしっかりととらえたりそれが私たちにもたらすものを財とすることができないようなときでも、約束が存在している。遅かれ早かれ、私たちが富む者とさせられたということが、また助けられたということが、示されるに相違ない」(バルト)。

・バルトは続けて、「イエスは、彼の弟子たちに、彼らの体験を誰にも話してはならないと、命じたもうた。これは重要なことである。何らかの仕方で神にいっそう近付いた者は、それを言いふらすことは許されない。彼はそれについておしゃべりすることが許されない。彼は、神の近さが永続的なものとなるために、祈りかつ働いて、成就するようにならなければならない。もし私たちがこれとちがったことをするならば、私たちがこのような瞬間の祝福を失うようなことが起こり得るのである。おそらく、これまでは、すでに、しばしば、このような実り豊かな瞬間が私たちの生の中に存在したことがあろうが、結局無駄に終わったのである。なぜかと言えば、そのような瞬間の後で、私たちがそれを純粋にまた謙遜に取り扱うことをしなかったからであり、またかつてイエスが力強く表現したもうたように、私たちが神聖なものを犬に与え、真珠を豚に投げ与えてやったからである(マタイ7:6)。イエスは、彼が死者の中から復活するまでは黙っているように、彼らに命じたもうた。それから、彼らはそれについて語ることが許されたし、語るべきであった。私たちが成就するようになったときに、私たちの神との結びつきが瞬間的なものから永続的なものになったときに、神がどのような方法で私たちをご自身に導きたもうかを他人に語る権利を、私たちは持つのである。そのときに、私たちは義務を持つ。そして、そのときに、私たちの証言にも力があるということに、私たちは依り頼むことが許される。ペテロは、そこに至るまでには、なお遠い道のりを歩まなければならなかった。そして、私たちの道も、おそらく、なおはるかなことであろう。しかし、私たちがただ一度だけでも神の特別の現臨について何かを感じとったときには、私たちは、その道が目標に通じていることの保障を得ているのである」。

・不信仰や弱さや反逆によってイエスから遠のき、この世の権力者とその同調者の地平へと後退してしまう私たちのことを受け止め、その後退から私たちをイエスのもとへと引き戻す命との結びつきを与えてくださっている方のことを忘れずに生きて生きたいと思います。