なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(99、復刻版)

 今日も「黙想と祈りの夕べ通信(99、復刻版)」を掲載します。

            黙想と祈りの夕べ(通信 99[-47] 2001・8・19発行)

 8月12日(日)の「黙想と祈りの夕べ」は、日曜学校の夏期キャンプと重なり、休会にしました。8月は26日(日)も日曜学校の夕涼み会があり休会にします。

 そこで、いつものように「分かち合い」の時に出た発言の要旨を私なりにまとめることはできませんので、今回は先日Kさんを東戸塚のホ-ムにお訪ねたした時に、姉妹からお聞きした引き上げの体験を記させてもらいます。ちょうど8月で特に戦争責任や平和について考えさせられていますので。
 
 Kさんは夫が満鉄に勤めていたので、戦前は満州にいて引き揚げて来たそうです。彼女の話では、旅順からの最後の引き揚げ船、病院船の「つくし丸」に乗って佐世保に着いたと言う。佐世保に着いた時に、自分の子どもの一人が瀕死の状態であった。一週間でか一ヵ月でか死ぬかも知れない。佐世保の人からは、それでもよく連れて帰ってきたと言われた。実際引き揚げの途中で、旅順までの列車で死んだ赤ちゃんを捨てなければならなかった人、引き揚げ船で死んだ子どもを日本海に投げ込んだ人もいた。そういう人から比べたら自分は恵まれていた。その子を抱いて泣いていたら、一緒に引き揚げてきた若い母親に、何故泣いているのかと聞かれた。事情を話したら、突然その若い母親が、「甘ったれるんじゃないよ」と言って、自分の頬を往復ピンタした。その方は子ども3人と一家5人で引き揚げてきたと言う。夫はロシア人に殺され、3人の子どもも、一人は新京の日本人収容所で死に、もう一人は旅順へ行く列車で死んだ。そして最後の一人も引き揚げ船のつくり丸で死んで、玄界灘に葬ったと言う。その若い母親はKさんに、「何をあなたは子どもを全部無事に連れて帰れて、夫もシベリアから逃げられて。私は夫も殺された。夫の形見をどうしても届けなければならないので、これから鹿児島の夫の両親にはじめて会いに行かなければならないのだ」と話したと言う。
 
 Kさんは、その方のことを考えると、今でも感謝しても仕切れるものではないと言われます。引き揚げて来てから、戦後の日本で夫は満州で病気をもらい、最初の10年位は働けたが、その後20年病んだ。そのために随分苦労したが、あの若い母親からの往復ピンタによって、その苦労も苦労と思えないで過ごせたように思うと。夫は、そのことを話したときに、「お前さんはプライドがあり、田舎もあって、傲っていたので、たしなめられて、よかったよかった」と言った。息子も自分がほっぺを殴られたことを覚えていた。 戦後56年になりますが、私がKさんを訪ねたのは8月8日でした。平和聖日の礼拝を共にした後でした。日曜学校では7月から8月にかけて教会員の方から戦争体験を聞く機会を持っています。この通信でも、Nさんの日曜学校でのお話を少し紹介しました。Kさんがお元気ならば、一度日曜学校でこのお話をしてもらえるのだがと思いながら、聞きました。私の義父も満州で戦死しています。同じ部隊にいた人の話では、ロシア軍の参戦によるドサクサで死んだそうです。けれども、そのことを義父の母には肉親の者は知らせられなかったと言います。ですから、義父の母は、戦後の随分長い間妻の父である自分の息子が帰ってくるのを待ち望んでいたと言います。
  
 Kさんの話を聞いて、日本の満州支配と引き揚げ者のことについて知りたいと思い、有隣堂で何冊か本を求め、今合田一道の『検証・満州、1945年夏、満蒙開拓団の終焉』を読みはじめています。